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ホームとお別れ

 一番近い葬祭ホールに電話すると、もう先客があったみたいで断られました。車で40分くらいの距離の葬祭ホールに電話すると、空いていました。通夜葬儀をお願いして、10時にはホームへ迎えに来てもらえる手はずが整いました。
 私たち遺族は病院へ行って死亡診断書を取るだけでいいのだそうです。後は全部葬儀屋さんがやってくれます。

さて、葬儀は私たち子供だけで送ってあげようと決まったのですが、そうは言っても濃い人には知らせなくてはいけません。山口にいる母の実家の甥の嫁さん(もう皆死んでいます)に一応知らせましたが、遠いし、足も悪いから行けない、と返事がありました。母方の叔父も足が悪いから歩けないということで参列できないとのこと。
 父方の叔父の長男の嫁さん(叔父もその長男も他界)に知らせ、父の従兄弟にも知らせましたが参列できず。一人だけ健在の叔父も認知が始まっていて最近は広島にいる息子夫婦のところに行っているらしく連絡が取れず。

 そうこうしているうちに9時前になり、職員さんが次々に入ってきました。

 Fさんというナースが、息せき切って玄関から入ってきました。わたしを見つけると、
『あ~、よかった。間に合った。カヅ子さんがもう行ってたらどうしようと思ってたんよ』
と言いました。Fさんは母がショートのころにお世話になっていたナースで、今はデイサービスセンター勤務になっています。
 Fさんと一緒に母が安置されている部屋に入りました。
『あ~、カヅ子さん、カヅ子さん。ありがとうね、ありがとうね』
と、母の顔をなでながら何度も何度も言ってくれました。ありがとうと言うのはこっちのほうです。
『カヅ子さんはねえ、かわいかったし、可愛がってもくれたんよ』
とまで言ってくれました。
 それから次々に職員さんが来てくださって、母にお別れを言ってくださいました。最後に母の担当になっていた職員さんも、母の枕元に膝まづいて、小さな声で、
『ありがとう』と言ってくれました。
 家族にとってこれほどうれしいことはありませんでした。

 10時前に主治医の先生が来て、死亡診断をしてくれました。
 そのとき、先生が、
『おりょ! おばあさんはこんなにべっぴんじゃったか?』
とおっしゃって、思わずみんな母を覗き込みました。死に化粧をしたときよりもまた母の顔は変わっていたのです。

 いよいよお世話になったホームともお別れです。搬送車には私が乗りました。
 ホームの玄関に、施設長さんはじめ全員の職員さんが並んで送ってくださいました。
 感謝の気持ちでいっぱいでした。

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夜が明けて・・・

 母はまもなく玄関に近い部屋へ移されました。

『先生が来られるのは9時過ぎです。それまでに着替えを済ませましょうね。あのパジャマでいい? お化粧はどうする?』
とナースに聞かれました。
『紫の小花模様の、あのパジャマを着せてやってください。お化粧もしてやってください』
とお願いしました。

 職員さんが3~4人で清拭、着替えを終えると、部屋に案内されました。ナースが化粧品を持ってきました。
『入れ歯を入れようね』
と母に語りかけながら、何度か試みてくれましたが、3年以上もはずしたままだったので口に収まりませんでした。おちょぼ口もかわいいので、そのままに、とお願いしました。
 ファンデーションをつけ、薄いピンクのアイシャドウをつけると、微笑んでいるように見えました。

『お母さん、アイシャドウは2回目じゃなぁ・・・』
と声をかけながら、入所したころのことを思い出していました。
 あの頃は月に一度化粧品店の方が来られて、お年寄りのために『メーキャップ教室』が開かれていました。その日は母も参加したらしく、車椅子に座った母は見たこともないようなけばけばしいお化粧を施されていました。青いアイシャドウと真っ赤な口紅。息を呑んでのけぞるようなメーキャップで、それでも母はうれしそうに笑っていたのです。喜んでいる母には、
『きれいになったなあ』
と言いましたが、(ここまでせんでも・・・)と内心憤慨しながらも車椅子を押して部屋へ連れて行きました。部屋への道中、車椅子を押しているのがわたしだと忘れている母は、
『娘が見たらびっくりするでなぁ』
と繰り返しました。
(ハイハイ、もうびっくりしとりますでぇ・・・)
と思いながら歩きました。途中、廊下の壁に鏡がありました。鏡に映る自分の顔を見て、
『こりゃあ、どうしたんな!』
とおどろく母が可愛かったです。そして鏡に私の顔を見つけると、
『ありゃ、おまえはいつ来たんな!』
ともう一度母はおどろきました。
 そんな思い出もあります。

 眉を少しずつ描いていき、おちょぼ口に口紅を指して貰うと、母の顔が見る見るきれいになっていきました。

 時刻は6時を過ぎていました。母のそばに次兄を残し、ロビーの椅子に兄と腰を下ろしました。
 何度も話し合って決めていたのに、
『やっぱり、家にはつれて帰られんなあ・・・』
と母をこのまま葬祭ホールに連れて行くことが兄もわたしも心残りでした。家につれて帰ってあげたかったのですが、何年も家は締め切ったままで、最近は雨漏りもするようになっていました。家で葬儀をするには無理がありました。
 実家の近所に叔父(父の弟)がいます。よくもしてくれますが、、なかなか気難しい人です。
『一度も家につれて帰らんかったら、怒るよなあ・・・』
 最近は叔父も認知が始まったようで、
『おじさんが呆けとって、よかったわ』
と兄と話しました。

 施設長さんが足早にやって来ました。
『言うの忘れてたけど、葬儀場は24時間受け付けてますよ。もう葬儀の申し込みはした?』
 兄と私が顔を見合わせるのを見ると、
『早くしないと、予約が入ってたらできないよ』
と葬祭ホールの電話番号を教えてくださいました。

 それから急にあわだたしくなりました。

母を看取る

 火曜日の朝のことを書きます。甥っ子は仕事に行き、兄も仕事の申し送りがあるからと帰っていました。部屋にはわたしと母だけでした。

 以前、『川の流れのように』を聞きながら・・という題で母のことを書きました。あれは、ホームの敬老会のアトラクションで母の隣で『川の流れのように』を聞き、この曲は母の人生そのものだなあと思ったのです。母の人生を重ねながら聞きました。

 火曜日の朝は母のそばで、母の手を握り、母の耳元で歌って聞かせました。
 
   知らず 知らず 歩いてきた

   細く 長い この道

   振り返れば はるか遠く

   ふるさとが 見える・・・

 何度も、何度も歌いました。 

 おかあさん、聞こえる?


 

 夜中、電話のベルが鳴る音で目が覚めました。暗闇の中、目を開けて次のベルを待ちました。鳴りませんでした。夢だったのか・・・と思ったそのとき、枕元に置いてある携帯が鳴ったのです。

『来るか?』

 兄からでした。その低い声で状況を察しました。すぐにホームへとバイクを走らせました。

 ホームの玄関の鍵は開けられ、電気もついていました。玄関からまっすぐ奥の母が寝ている部屋を目指して走りました。

 部屋から兄が出てきて、
『1時15分に、15分くらい呼吸が止まった。吹き返したけど、今もまだ呼吸は時々しかしてない』
と言いました。

 母は息も絶え絶えでした。息は弱く浅く、間隔も長く、ほとんど胸は動いていませんでした。
『わしが泊まるのを待っとったんかなぁ・・・』
 と兄がボソッとつぶやき、玄関の方へ歩いていきました。

『おかあさん!』
と何度か呼ぶと、不思議なことに、普通に呼吸を始めたのです。でも、それは長く続きませんでした。

 呼吸の間隔がだんだん長くなり、ふっと短く息を吸って、それが最期でした。

 9月2日午前1時54分、永眠しました。

 悲しみよりも、いいお別れが出来た満足感のほうが大きかったです。そして母の最期を看れた幸せもありました。

 兄を呼び、職員さんを呼びました。

 夜が明ける前には施設長さんやナースも駆けつけてくれました。


ばあちゃんの心残り?

 危篤状態に陥ってから5日、無呼吸状態が度々起こりながらも母は頑張っていました。

 ばあちゃんはまだこの世にし残したことがあるんかなあ、何か心残りがあるんかなあ・・・と兄弟で話しました。いろんな心当たりを出し合っていて、そう言えば、ばあちゃんの通帳が1冊どこかに仕舞ったままで、探しても出てきてないなあ・・・通帳を早く探せと教えてるんかなあ・・・こんなときに不謹慎のようだけど、甥っ子を連れて実家へ行きました。

 ばあちゃんが小遣いをくれるとき、いつもどこから出してた?

 みんなが一致した返事は、

『納戸のふとんの間!』でした。

 実家の戸を全部開け放ち、甥っ子が押入れから布団を出しては広げ、出しては広げ・・・。全部出しても通帳はありませんでした。

 納戸の隅に3段ボックスがあります。ここは何度も見たところですが、もう一度探してみることにしました。一番上の引き出しには、ポケットティッシュが箱に入れておいてありました。その奥は、シップや蝋燭、乾電池が入っています。

 ないねえ・・・やっぱりないねえ・・・と言いながら、ティッシュの入った箱を取り出すと、茶色の封筒がパタッと倒れました。引き出しと箱の間に立てていた封筒の表には、『農協』の文字。
 中には、農協の組合員証と、探していた通帳が入ってあったのです。

 あった!

 まだ押入れの中を探していた甥っ子も驚いて飛んできました。

 母親が危篤状態だというのに何たる不謹慎! と怒らないで。すぐに郵便局へ行き全額引き出しました。信用組合の貯金も同様です。姑さんの死後、貯金の引き出しに、兄弟4人の印鑑証明だの財産放棄だので大変だったのを覚えています。うちの場合、兄弟が一人行方不明なので先々大変なことはハッキリしていたので、全額引き出しました。

 父が息を引き取り、待合室でみんな待機していたとき、母が、『立ち飯は何個注文したらいいか? 葬式にはだれだれ呼ぼうか?』と言い出しました。そのとき、兄が、『今お父さんが死んだばっかりなのに、そんなことを今言わんでもええのに』と母をたしなめていたのを思い出しました。
 母にしてみれば、夫を亡くした悲しみよりも、葬儀をどう営もうかと、その心配のほうが大きかったのが今はわかります。

 今までの父や祖母の葬儀の時には、長老と呼ばれる伯父たちがいたので、私たちは言われるとおりに動いていればよかったのです。でも、その叔父たちも亡くなったり認知が始まっていたりで当てには出来なくなっているのです。

 施設長さんや生活指導員さんからも、母の通夜葬儀をどうするのか聞かれていました。それについては、兄たちとも相談して決めてありました。

 5日目の火曜日の夕方、徳島から兄が来ました。今晩は自分が看るから、お前たちは今日は家でゆっくり寝て来い、と言ってくれたので、次兄親子も私もその夜は家に帰ることが出来たのです。

姉と妹

 母には二つ違いの妹がいます。妹は言いたいこと言いの癖に、人に言われたことは気にする、神経質で几帳面な人でした。

 母が妹にコーヒーを出したとき、カップに汚れが付いてないかじ~っくり見てからでないと妹が飲まないと言って、母がひどく怒っていたのを思い出します。
 気が弱いくせに人前で歌を歌うのは平気な母は、花見とか老人会などで歌う機会があると必ず歌いたがりました。他の人が次々に舞台に上がって歌うのを見ていた母は、
『わしも歌おうかぁ? 歌うてもええかぁ?』
と聞いて来ました。
『歌うてきぃ』
と言うと、嬉々として舞台に立つのでした。
 老人会で母が歌った後、妹に、
『腰が曲がっとるのに、人前で歌わんでええ! 格好が悪い!』
と言われたとかで、母はひどく怒って、
『もう2度と歌わん!』
と言いましたが、その後も歌っていました。
 歌うことが大好きだったので、認知で言葉が出なくなっても、歌だけは時々歌っていたそうです。
 川中美幸さんの歌が好きでしたねえ・・・。

 その妹も、母と同じホームに入所していました。認知は進んでいますが、あの辛らつな言葉は健在です。食欲も旺盛で、いつ見ても、まだまだおばさんらしくていいなあ、と思います。

 母が危篤状態になったとき、職員さんの計らいで、母の部屋へ叔母を連れてきてくれました。
『トミコさん、おねえさんが病気じゃけぇ、見舞いをしてあげてちょうだい』
と言って連れてきたのでしたが、叔母は母を見るなり、
『わたしのねえさんは、こんな年寄りじゃないでぇ。ほんでも、見舞いをせえと言うなら・・・』
と、ベッドに近寄り、
『まぁ、ねえさん、早う、元気になりなさい』
 それだけ言うと、車椅子を動かし部屋を出て行ってしまいました。ベッドで寝ている年寄りを姉と認識していませんでした。

 叔母は自分で車椅子を動かせます。午後から夜中2時過ぎまで、毎日ずっとなにやらしゃべりながらホーム内をぐるぐる回っています。それで、朝起きるのは誰より遅いです。
 時々、
『おばさん!』
と声をかけますが、
『あんたは誰かいなぁ? わたしゃあ、あんたを知らんでぇ』
と怪訝な顔をして離れていきます。

 5日目の火曜日、部屋の表に出たところで叔母に会いました。叔母は私を見るとすぐに、
『わたしゃあ、この人を知っとる。この子は私の姉さんの子でぇ。タエちゃん! お母さんはどこへ居るんない?』
と言いました。母の部屋の戸を開けてあげると、叔母はすぐに部屋へ入っていきました。ベッドで眠る母を見ると、
『ねえさん! ねえさん! 元気にならにゃぁいけんでぇ!』
と何度も声をかけたのでした。 最後に叔母が母を認識できて本当によかったと思いました。

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 満開の桜の下で、花見見物の姉妹です。なにを語ったのでしょう。

 

がんばらんでええよ

『昼からカヅ子さんの全身清拭するんだけど、一緒にしますか?』
とナースが声をかけてくれました。

 母は独り暮らしをしていた頃は40キロくらいしか体重がなかったのですが、ホームに入所してからは規則正しい食事のおかげで少し太っていました。
 家ではほんの少ししか食べていませんでした。小さいお皿に、砂糖とソースをかけたトマトの輪切り、冷奴。煮魚だけ、とか煮しめだけ、とか。菓子類を食べてる印象もありませんでした。
 3年前に胃婁にしてから、吸収がいいのかもっと太って、シワが伸びて色艶もよくなっていました。

 眠っている母に声をかけてから、清拭を始めました。熱いタオルで顔を優しく拭いていきます。ンン・・・ンと母が顔をしかめます。
『カヅ子さん、ごめんねぇ』
と優しく優しく拭いてくれました。片腕をパジャマから抜くのを手伝います。腕が抜けたら肩と腰を持って体を横に向けました。
『あぁ・・ありがとう・・・あぁ、そうか、いつもしてるね』
とナースがわたしの手元を見て言いました。わたしも一応介護の仕事をしているのです。でも、母の体を見るのは何年振りでしょう? 母は先月入院してからすっかり痩せてしまっていました。
 オシメを替えるときに見た母のおなかはぺっちゃんこ。栄養剤も入ってないもんね。
 体半分を熱いタオルで拭いた後、新しいパジャマを着せます。体の向きを変えて反対側の半身を拭き着替えは終わりました。

 その夜は、血中酸素が計れなくなったり、呼吸が乱れてきました。吐くのは長くて吸うのはほんの一瞬。上下していた胸の動きも少なくなっていきました。吸痰のたびに苦しみます。

『お母さん、もう、がんばらんでええよ』
 母に声をかけました。

 

3日目

 日曜日。母の容態は安定していました。

 甥っ子はずっと付きっ切りでしたが、明日は仕事、と言うことで、作業服を取りに家に帰り、すぐに戻ってきました。ホームから仕事に行くつもりです。
『おばあさんも落ち着いているし、今晩は僕が見るから、おばちゃんは帰っていいよ、親父も長いすで寝とけ』
と言ってくれました。

 3日ぶりに我が家で寝ることが出来ます。あれこれ片付けたりして、寝たのが12時過ぎ。

 寝ついたかと思うとまもなく電話が鳴りました。1時。

『おばあさんの様子がおかしい、すぐ来れるか?』

 兄からでした。もしものことを考えて着替えは枕元に用意していたので、すぐに走りました。

 呼吸が10秒くらい止まるようになっていました。母は目を閉じ、苦しそうに顔をしかめていました。
『お母さん!』
 不思議なことに、わたしが駆けつけ声をかけると、母は普通に呼吸を始めるのでした。

 4日目の朝が来ました。ナースが出勤して来て、バイタルを取ってくれました。
 血中酸素が計測できなくなったり、また99にまで上がったり。血圧も同様。脈が取れなくなったり、それでも鼓動は強く打っています。
『カヅ子さん、頑張るねえ・・・』 
 でも、今晩が山かも、そばについていて上げてくださいね、と言われました。

 28日金曜日の仕事が終わってからはホームへ駆けつけ、翌土曜日、日曜日は休み、月曜日も運よく休みでした。明日の休みをもらうべく、会社へ電話しました。母が危篤状態だというのは伝わっていたはずです。
『もしもし、○○です、お疲れ様です。母が今晩が山のようなので、明日以降お休みさせてください』
 わたしが言い終わらないうちに、
『ハイハイ、休み!』
 ガチャン! 大変忙しいようです。 まぁ、いつもこんなもんです。

 月曜日の午後、母の全身清拭の手伝いをさせてもらうことになりました。

姪の思い

 8月30日日曜日。

 ホームでの食事は、コンビニでおにぎりなどを買って来て済ませていました。たくさんも食べれないのですが、、さすがにコンビに弁当は飽きます。

 姪がお弁当を持って、子供3人連れてやって来ました。

 母の見守りも3日目になり、ずっと母のそばにつめている私たちを気遣い、ホームの職員さんが休憩室を貸してくださったので、お弁当はそこで食べることにしました。仮眠もそこで取って下さっていいですよ、と言ってくださいました。ありがたいことです。

 炊き込みご飯のおにぎりやから揚げやお刺身など、どっさり持ってきてくれていました。
『おばちゃん、おばあさんはもう死んでしまうん? もうよくならんの?』
と姪も落ち込んでいます。姪の母親が苦しんで死んだので、ばあちゃんが苦しんでいる姿を見るのは忍びないようでした。
『ばあちゃんは寿命が来て死ぬんだから、蝋燭の火が消えるように逝けるよ。みんなで見守ってあげよう』
と姪に話しました。


 次兄の妻が亡くなった当時、娘は中3、息子は中1だったように記憶している。葬式の後2ヶ月ほど、母が兄の家に行っていた時期がある。兄家族と母は疎遠であまり良い関係ではなかった。先日兄の家を掃除に行った時に姪がしてくれた話。

 前にも書きましたが、母について姪が話してくれたことを書きます。

 母さんが死んだ時、私は母さんのことをいろいろ知って、母さんは最低な人だと思った。その頃は父さんとも、まぁちゃん(弟)とも話をしたくなかった。そんな時ばあちゃんがうちへ来てくれて、家の事をいろいろしてくれた。
 母さんはばあちゃんの家に行かなかったし、ばあちゃんにお金をたくさん借りてそのままになっている。ほんとはばあちゃんはそんな嫁のいた家には来たくなかっただろうに来てくれた。ばあちゃんは母さんのしたことを一言も言わなかったし顔にも出さなかった。

 ばあちゃんは、朝ごはんを炊いてくれて、お弁当のおかずは私が作った。ばあちゃんは、しゃれたもんはよう作らんて、ごはんだけ炊いてくれた。晩ご飯もばあちゃんは魚か煮しめを炊いていてくれた。
 晩ご飯の支度が済むと、いつも裏口に出て、チャック(飼い犬)のそばの箱に腰かけて土手の上を眺めていたんよ。
『ばあちゃん、何を見ようるん?』
て聞いたら、
『お前らのお父さんが帰ってくるんを待ちょうるんよ』
て言った。
 それで、父さんにばあちゃんが毎日父さんを待ちょうるから、早く帰ってきてあげてって言った。父さんはこどもの頃ばあちゃんと暮らした思い出がないから、その時一緒に暮らしたのがすごく嬉しかったって。

 ばあちゃんがしてくれたことが嬉しかったから、免許を取ったらばあちゃんが行きたいところにはどこでも連れて行ってあげようって決めたんよ。
 ばあちゃんはもう良くならんのかねえ。
 わたしはばあちゃんを引き取って一緒に暮らしてもいいと思ってたんよ。


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 幼いころの2人を抱いた母です。

危篤 2日目

 コオロギは部屋の入り口からピョン、ピョンと跳ねて長いすの下に入りました。

(おいおい、あんたはお父さんじゃないんか?)

 兄親子と3人で、コオロギの行く先を追って長いすの下を覗いたりしていたが、話をしているうちに、知らぬ間にコオロギのことはすっかり忘れていました。いつ部屋を出て行ったのか、コオロギはいなくなっていました。

 そのときに兄が書いたメモ。

 ハハキトクの報に母の元に駆けつける
 枕元で今までの親不孝をわびる
 コオロギが入ってきて、父が迎えに来たのかと思ったが
 知らぬ間にいなくなって、どうやら父ではなかったらしい
 母のそばで、母を見守り、
 わたしの親不孝を少しは帳消しにしてくれただろうか

 その夜8時過ぎ、孫のゆいかを連れて夫がやって来ました。パジャマ姿です。
『ばあちゃんのトントンがないと、ゆいか、寝られん・・・』
 夕べはじいちゃんと寝たようです。長いすにゆいかを寝かして私も横になりました。抱っこしてトントンをすると、まもなくゆいかは寝ました。寝入ったゆいかを抱いて、夫は帰っていきました。

 母は、今までは栄養剤の注入を1日2回していましたが、昨日からは1回になっていました。それも、すぐに逆流するようになりました。注入はいつも始めて10分くらいで中止になります。注入後の白湯の注入、解熱剤の注入も出来なくなってしまいました。逆流すると、呼吸困難になり、血圧もぐんと下がります。

 血圧は75-35くらいにまで下がっていますが、相変らず血中酸素は99パーセント。熱は下がったり上がったりの繰り返しです。

 2日目の夜を越しました。


コオロギが来る

 8月29日土曜日。

 兄夫婦が徳島へ帰った後、わたしもちょっと家に帰って着替えてくることにしました。母のそばには次兄親子が残りました。

 家には娘がいてくれたので私は安心して母を見ることが出来たし、孫も寂しがらずに遊んでいました。大助かりです。着替えてから、気になっていた母の指輪を持ち、またすぐにホームへ行きました。

 ちょうどナースが来ていたので、母に指輪をしてあげてもいいか尋ねると、
『そうね、してあげようか』
と言って、母の硬縮した指をゆっくり伸ばしてくれて指輪をはめてくれました。

 お母さん、お父さんに貰うた指輪、したでぇ、よかったなぁ。

 ホームではほとんどのお年寄りが指輪をはずしています。指が浮腫んで取れなくなることが多く、指輪を切らないと取れないし、それには危険が伴うためだそうです。

 母は、昨日よりも少し楽そうに見えました。痰が絡んだとき呼吸が苦しそうになるくらいで、血圧も血中酸素も問題ありませんでした。それより、看ているわたしのほうが血圧が高く、血中酸素の数値も低くて笑ってしまいました。

 午後、主治医の先生が往診に来ました。
『大きい病院へ連れて行かんで、ええんじゃな? 逝くんが早いぞ、ええんか?』
と、念を押して聞かれました。
『いいです』
と答えました。
 先生は母を覗き込んで、
『お母さん、えらいがんばるのぅ』
と言って出て行かれました。昨日の往診のときには、聴診器を当てたり脈を取ったりしていましたが、今日はなし。これが延命をしないということ? ふぅ~ん・・・と複雑な心境。

 部屋には長いすを用意してくださっていたので、時々横になって目を瞑ることは出来ましたが、ナースや職員さんがひっきりなしに出入りするので眠れませんでした。

 母を看ながら、兄と子供のころの思い出話をしました。やはり、宇部にいたころの思い出です。

 学校が休みになると兄弟従兄弟で両親のいる宇部へ行きました。小さな小さな、今思うと掘っ立て小屋のような家でした。

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 (昭和37年7月29日 写真の母はシュミーズ姿)

 入ってすぐの土間に小さな流し台があるだけの台所、狭い板の間と、奥にたたみの部屋と押入れがありました。
 親子6人がふとんを敷き詰め団子になって寝ていました。
 漁が休みの日には、秋吉台や常盤公園、下関の水族館、若戸大橋の渡り初めにも連れて行ってもらいましたねえ。楽しい思い出です。
 宇部の海岸通りには石炭のクズ(と思います)が積まれていました。私たちはそれをボタ山と呼んでいました。冬に雪が積もると、竹で作ったスキーで滑って遊びました。それに、夜になると親子でバケツを持ってボタ山の石炭クズを持って帰りました。(あれって、ドロボウしてたの? まぁ、時効ということでお許しあれ)

 あの頃はお母さんも楽しそうじゃったなあ・・・と言うと、大舅、姑、小姑にいじめられる母を見ていられなくて、父が母を連れ出したんだとそのときに兄から教えてもらいました。

『そうそう、私は子供のころお母さんから、おまえが一番かわいいと言われ続けてきたんだけど、あんたも言われとった?』
と、気になっていたことを兄に聞きました。
『イヤ、そんなことはいっぺんも言われたことはない!』
キッパリと兄が言いました。
『わたしだけか・・・』
 わたしが母と別れていたのは、小学校1年生から5年生までと、高校を卒業して大阪へ就職していた2ヶ月(根性がなくでスイマセン)だけ。結婚も町内の人とだし、住んでいるのも町内だし、母のそばにいた時間が長い分、たくさんの思い出があります。幸せですね。

 部屋の戸を開けたときに、コオロギが入ってきました。甥っ子がコオロギを外に出そうとするのを兄が止めました。

『親父が迎えに来たんかも知れんぞ』

 3人でコオロギの行く先を目で追いました。

現実問題 2006・3・10

『手術の説明は聞かれましたよね。お母さんの足をお持ち帰りしていただく箱を用意してほしいのですが』

 夜7時過ぎにかかってきた病院からの電話で、一気に現実に引き戻された。
『先生からは、業者さんにお任せするのでいくらか費用がかかるんですが、それはまた後ほどと言われていたんですが、私たちが持って帰るんでしょうか?』
『術後、診断書をお渡ししますから、役所へ持っていって火葬許可証をもらって火葬にしてください』

 箱はどうする? 母の足は誰が持って帰る? どこへ置いとく? その夜はどうする? 供養は? 火葬料は? お骨は?

 わからないことばかりで、兄に電話したり、大工さんに箱を頼みに行ったり、てんやわんや。身内の死後、すぐに葬儀屋さんとの打ち合わせがあり、泣く間も何もあったもんじゃないと嘆いていたのを聞いたことがある。まさにその状況である。

 婚姻届は24時間受け付けているというのは聞いたことがあるが、火葬許可はどうなのだろうか? 術後に診断書をもらって・・ということになると5時過ぎるだろうし、役所はもう閉まっているだろうし。火葬は死後24時間経たないと許可が下りないと聞いたことがある。

 兄と携帯電話で、近所のばあちゃんが同じような手術を受けた時はどうしたんだろうか?とか、他の病院ではどうだったんだろうか?とか話していると、家の電話が鳴った。義兄からだった。舅の様子がおかしいと言う。先生の話だとこの一週間が山だと言う。これを乗り越えると後1ヶ月。

 涙が一気に引いて行った。

 昨日老人ホームへ行ったら、姑も最近調子を崩して個室に移されていた。姑さんに、
『お母さん、はよう元気にならにゃあいけんよ』
と声をかけると、
『はい』
と頷いてくれた。

 あっちもこっちもそっちも、みんながんばれ!

 そして9時過ぎには、母が入院している病院の看護師長さん(近所の人)から電話があり、
『お母さんのことは許可証が下りて火葬の時間がわかるまで病院側が保管しときますから、箱の心配もしなくていいですよ』
と言ってもらい、一安心。
 兄にそのことを伝えると、兄は兄で、線香とろうそくを買ってきた所だと言い、お互いに一息ついた。

 まだまだ。これからがたいへんだ。


 舅さんは胃がんで入院中、姑さんは同じホームで同じく胃婁で具合が悪く、母は足を切断・・・大変でした。


思いっきりイヤな自分 2006・2・25

 担当の看護師さんから電話で母の入院が長引くから、老人ホームの籍を一旦切ってはどうかと言われた。その理由が母の足に出来た褥瘡だというので、どうにも納得できなかった。体位交換をまめにしていればいくらか防げたはずなのだ。

 先生に話を聞くために病院へ行った。受付でその旨を話すとすぐに談話室へ案内された。先生は間もなくノートパソコンを手にやって来た。テーブルに着くや先生はパソコンの画面に映る写真を示し、これが母の足の状態だと言った。

 受付に行く前に母の病室を訪ね、ふとんをめくり足の裏に貼られたガーゼを見ていたが、パソコンの写真の傷を見て驚いた。
 動脈が詰まって血流が悪くなり、足の先まで血が通ってないそうだ。それで母の足の裏は壊死していると言う。動脈を開く点滴はしているのだが、最悪足を切断しなくてはならなくなるそうだ。
 どうにかお願いして老人ホームを退苑しなくて済むよう措置をとってもらおうと思っていたが、退苑は免れない。
 引き続き入院治療を続けることにし、病院を後にした。

 私は自分の気持ちを押し込め、昨日今日と2日間淡々と過ごして来た。それでもため息ばかりが出る。風呂の支度を済まし、夕食の支度をしているとき、テーブルの真ん中に置いてある電気鍋を邪魔だからどけろと言った夫の一言が針になって私の気持ちを突き刺した。張り詰めた気持ちがプスプスとしぼんで行くようだった。鍋を思いっきり音を立てて棚にしまった。そして、食事している夫一人を残して自分の部屋に入り、真っ暗闇のままふとんにもぐり私は目を閉じた。

 自己中の思いっきりイヤな自分がここにいる。暗闇の中、ゆいかが部屋に入ってきて何も言わず私の腕の中にもぐりこんで来た。
『ばあちゃんのて、つめたいね。ゆいかのて、あったかいよ』
 わたしの手を握りながら、ゆいかが一人しゃべっている。
『ばあちゃん、ゆいか、あさになったらまたちてあげるちぇ、なかんといてね』
と、ひとしきりしゃべって部屋から出て行った。

 生きていると、いろんなことがあるね。泣いてる場合じゃないわ!

 
 何もかもがわたしの肩にかかってきて、押しつぶされそうな日々でした。


2005年10月24日の日記

 話が2005年ころに戻ります。
 
 相変わらず母の食事介助に行っている。ちょっと前までは割りとよく食べるようになっていたのに、またここ数日思うように食べてくれない。というか、いつも眠そうだったり、起きたばかりだったり、ひどい時は寝てるのを起こして連れてきたりする。

 いつものように11時40分頃に老人ホームへ行き、デイルームへ顔を出す。見渡してみて母の姿がないので、食堂へ行ってみる。食堂にも母がいないので、もう一度デイルームへ引き返そうとすると、
「朝ごはんを10時に食べたので、まだ寝ています。朝ごはんも10時の水分補給も全部食べましたよ」
と寮母さんに言われた。
「だから、昼ごはんは食べないかもしれません」
 それを聞いて、この数日のことが把握できた。母はいつも朝ごはんを遅く食べていたのだ。
 朝ごはんを10時に食べて、一体昼ごはんは何時に食べているのだろうか?それで、夕食は?

 土曜日は、月に一度の誕生会だった。メニューも、母の好きな散らし寿司だったはずだ。母はミンチ食だが、散らし寿司のときはお粥にせず寿司にしてもらっている。まだ寝ていては仕方ないので、私は帰って来た。

 朝食はいつもパン粥と味噌汁、煮物を少しと牛乳だ。昼食はおかゆと味噌汁、メインと煮物か和え物にフルーツがつく。朝食を全部食べるよりは昼食を食べたほうがいいと思うのだが、食事介助をしなくてはいけない母を寝かせておいたほうが寮母さんには都合がいいのかもしれない。そこのところを親しい寮母さんに聞いてみた。寮母さんにしてみれば、朝同時に起こすほうが楽なのだそうだ。それなら起こしてやって欲しいと思う。

 今日も魚を買ってきて煮つけた。母が起きていることを願って、行ってこよう。
  

 この日記は全く利用者の家族の目線で書いています。自分が介護の仕事をするようになってわかったことですが、よく寝ている人を無理に起こしてまで食べさせる必要があるのか?と言うことです。自分の身に置き換えて、寝てるのを起こされてまで食べたい? 1食抜いても死にゃあせん!

 でも、この頃は母に食べてもらいたくて必死でした。

母を囲んで

 兄の娘夫婦が子供3人を連れてやってきたのは9時過ぎでした。

 そうなると、私たち夫婦と孫、娘親子、兄一家、総勢12人が狭い静養室で母を覗き込んだ形になったわけです。
 何もわからない子供たちが5人、久しぶりに顔を合わせたものですから、上を下への大騒ぎ。当のばあちゃんが、こらこら、わたしを忘れてないかい?とでも言うように、痰を絡ませて呼吸が荒くなります。そのたびに、兄の息子が、
『おばあさん! おばあさん!』
と母の背中を叩いて痰を出させようとします。
『おばちゃん! 看護婦さんを呼んできたほうがいいんじゃないん?』
と言うが早いか隣の寮母室にナースを呼びに飛び出していきます。
 吸痰をしてもらうと母の呼吸も落ち着いてきました。

 子供たちを追いかけながら、母の様子を見ながら、わいわいわいわい・・・自然に話はばあちゃんの思い出話になります。ばあちゃんの思い出話というと、やはり楽しい話ばかりです。

 ばあちゃんが孫を怒るときの口癖。『ほりゃあ、ほりゃあ、ほりゃあ~!』と節をつけてみんなで大合唱です。

 ばあちゃんの料理で思い出すのは・・・『薄いカレ~!』 これも全員一致の大合唱。

 あ~、いいねえ、ばあちゃん! みんなが枕元に集まって楽しそうで・・・。

 これが危篤でなければどんなに幸せか!

 話が盛り上がって母を忘れたころ、思い出せとばかりに母の呼吸が荒くなります。

『わしのことを忘れとりゃあへんか? とおばあさんが怒っとるでぇ』

 10時過ぎには子供連れは帰り、わたしと兄と甥っ子の3人だけ残りました。そのころには母も落ち着き、血中酸素も99、3時間おきに吸痰するだけになっていました。

 翌土曜日朝3時ごろ、徳島から兄夫婦が来ました。 弟は抜きにして、これで子ども3人が揃ったわけです。

 これが危篤でなければ・・・何度そう思ったことでしょう。

 母が落ち着いているのを見て、兄夫婦は昼前に徳島へ帰って行きました。

 
 ちょうどそのころ、うちには娘が里帰りしていたので、帰るのを延ばしてもらって家のことを全部してもらっていました。おかげで心置きなく母のそばにいることが出来たのです。

兄と母

 福山に住んでいる兄が息子を伴ってやってきたのは7時過ぎでした。

 先月病院で見たときには元気そうだったのに・・・ぜんぜん違うなあ、と兄は母の耳元で、
『おかあさん! おかあさん!』
と声をかけました。先月の入院で兄は何回か母を見舞っていますが、そのたびに母は元気で、
『ひとつもしんどそうになかったでぇ』
とわたしに電話してくるのでした。
『あんたはいつも元気なときに見舞いに来るんよ』
と笑ったものです。

  兄は嫁に先立たれて10数年経ちます。そのとき娘と息子は中学生でした。その兄一家を助けるために母は兄の家に行っていた時期があります。 前述の薄いカレーを作ったのもこのころです。
 夕ご飯の支度をした後、母はいつも裏口に出て、箱に腰掛け表通りを眺めていたそうです。
『おばあさん、毎日なに眺めよん?』
と孫娘が聞くと、
『おまえらのお父さんが帰ってくるんを待ちょうるんよ』
と言ったそうです。
 兄にとっても、子供のころ母と暮らした思い出がなかったので、このころ母と暮らした日々はとてもうれしかったようです。

 兄嫁は生きているとき、母に迷惑をかけていました。兄嫁の葬儀の後、母が兄の家の台所で、
『ビールを1杯、くんない(ください)』
と、母がビールを飲んでいるのをはじめてみました。母は何も言わず、ぐいっとビールを飲み干しました。母が怒っているのがわかりました。

 孫娘も、詳しくはわからないけど母親が多くの人に迷惑をかけていたらしいことだけはうすうす感じていたそうです。それなのに、おばあさんは母親のことを一言も言わずに自分たちの世話をしてくれた、それをすごく感謝している、おばあさんが認知が始まったころ、自分がおばあさんを引き取って一緒に暮らしてもいいとまで言いました。

 母危篤の報に駆けつけた孫息子も同じ思いだったようです。

ハハキトク

 8月28日金曜日、仕事が終わって帰り支度をしているとき、ホームから電話がかかりました。

『カヅ子さんが危ないです。すぐに来ていただけますか?』

 昨日会いに行った時にはいつもと変わらず眠っていたのに・・・。

 母は相も変わらず酸素マスクをつけていたし、熱も上がったり下がったりの状態が続いていました。不思議ですね。どんなにお医者さんからいつどうなるかわかりませんよ、と言われていても、そのたびに母は復活して、この人は死なない!と思っていたのですから。またいつもの呼び出しかな?くらいの軽い気持ちでホームへ向かいました。

 ホームに行くと、母は居室から静養室に移されていました。寮母室の隣、様態の変化にすぐ対応できるように、姑さんもこの部屋で最期を迎えました。

 施設長さんとナースが案内してくださいました。昨日の夕方から血中酸素がぐんと落ちて熱も高くなっているのだそうです。母の顔を見たとき、あぁ、もうお別れかな、と思いました。先月病院で見たときとは比べようもなく、そう思いました。

 母の手を握り、
『おかあさん! おかあさん! しゃんとせにゃあ!』
と声をかけました。
『耳だけはいつまでも聞こえてますから、声をかけてあげてください』
とナースから言われました。母は全く目を開けませんでした。

 すぐに兄たちに電話し、来てくれるよう伝えました。

 ナースの手招きで部屋を出ました。

『こういう状態だとたぶん夜中か明け方になると思うんですが、もしお亡くなりになっても主治医が死亡診断に来るのは9時過ぎになりますから、それまで家族の方がそばについてあげてください』

 もうこんな話! と思いましたが、これが現実なんですね。

『硬直が始まる前に清拭をして着替えさせてあげようと思いますが、着せてあげたい服があれば持ってきてください』

 母に良く似合っていた紫の縁取りの小花柄のパジャマを着せてあげてくださいとお願いしました。

 母のそばに戻り、手を握って泣きました。母が足を切断したときよりも泣きました。何度も何度も母とは別れの覚悟をしてきたのに、これで本当に別れだと思うと、母が恋しくて、母がかわいそうで・・・。

 ノックがあり、職員さんが入ってきました。見たことのない人でした。
『カヅ子さんの顔を見せていただいていいですか?』
 その人は母の手を握り、顔をさすって、
『カヅ子さん、頑張ってよ。明日の朝、また会おうね』
と言ってくださり、
『ありがとうございました』
とまで言って帰っていきました。それからも次々に、仕事を終えて帰る前の人や、夜勤に来た人も母の顔を見に来てくださいました。

 本当にありがたいと思いました。

 おかあさん、いっぱい見に来てくれたよ。ありがたいなぁ。

不思議な出来事

 7月に母が入院して生死の境をさまよっていた時のことです。

 夜、近所のおばちゃんが我が家にやって来ました。わたしの弟の親友T君のお母さんです。
『大阪にいる息子から電話があって、おばさん(母)が夢枕に立ったんだけど、おばさんに変わりはないか聞いてきてほしいと言われたんじゃけど・・・』

 それを聞いてびっくりしました。母は今入院していて危篤状態だと言いました。

 弟は消息不明になって10年くらいになります。弟に非があっての離婚以来、どこで何をしているのやら・・・。

 母の認知が始まったころ、弟に電話したことがあります。母の状態を話し、
『お母さんがまだわかるうちに、顔を見に帰ってきなさい』
と言うと、
『それは楽しそうですね。まぁ、よろしくお願いします』
 他人よりひどい(いいえ、他人さんならまだ温かい言葉を掛けてくださいます)言い草に、
『その言い方は何?』
とわたしは怒りました。弟とわたしは小さいころから割りと仲良しでした。何が弟を変えたのでしょう。それが弟との最後の電話になりました。それ以来連絡が取れなくなってしまいました。

 母にしてみれば末っ子、一番可愛いはずです。

 母の家のアルバムを整理していると、母が破いたであろう写真が1枚ありました。弟一家と宮島へ行ったときの写真でした。母の隣には子供を抱いた弟のお嫁さんが映っていたと思われます。

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 離婚に至った経緯も許せなかっただろうし、独り身になる末っ子が不憫でもあっただろうし、母の怒り、悲しみが見えるようでした。

 弟とT君は小学校、中学校はもちろん、違う高校に進学しても、大学へ行くようになってからも付き合いは続いていました。大晦日には母の家に行ってごちそうを食べ、酒を飲み、それぞれの明るい将来を語り、年が明けて元旦の朝まで一緒に過ごしたんだそうです。
『おばさんがいやな顔ひとつせず毎年もてなしてくれたのが忘れられない』
とT君が言ってくれました。

 T君は母の夢を見たとき、きっとおばさんは息子を探しに来たんじゃないか? 探してくれと言っているんじゃないか?と思ったんだそうです。

 私も、きっと母は弟に会いたかったのだろうと思います。

おかあさん、わかる?

 退院して帰ってきてからも、ホームから何度か呼び出し電話がありました。それはいつも、様子がおかしいからついていてあげてくださいというものでした。

 母が寝ている部屋は二人部屋でした。もう一人のおばあちゃんも胃婁をしています。

 母の様子を見ながら隣のおばあちゃんを見ていると、息遣いがどうもおかしいのに気づきました。8回くらい呼吸すると、長いときには22~3秒呼吸が止まるんです。

 母を見ながらも、隣のおばあちゃんのほうが緊急事態のような気がして、医務室へ行きました。おばあちゃんの様子を告げると、
『ここ何ヶ月も無呼吸状態を繰り返してるんですよ』
ということでした。母よりそのおばあちゃんのほうが心配になりました。

 どなたもつかなくていいのでしょうか? それとも、切羽詰った状態ではないのでしょうか?

 そんなことを思いながら母のそばについていました。

 母は時々は目をあけますが、ほとんど眠っていました。

『お母さんは娘さんのことはわかっていますよ』
と職員さんはいつも言って下さいます。
(ほんとにわかってるんかなあ?)と思いながら、母の目をじっと見ます。

『おかあさん、わかる?』

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 今年の母の日 カーネーションの花束を持って・・・・なんて悲しそうな顔でしょう。

退院

 入院した当初は、痰の吸引、熱を下げること、酸素マスクで呼吸を助けること、もし急変した場合、心臓マッサージなどの延命処置はしないことを告げられました。脳梗塞も何度か起きてますね、肺に水も溜まっています、と先生の言葉でした。

 今までは一日2度栄養を胃に注入していましたが、今の母の状態では体に負担がかかりすぎるというので、一日1度だけになっていました。

 わたしは仕事を1時間繰り上げて毎日病院へ通いました。

 あと何日母の顔を見れるのだろうか?

 熱は下がったりまたぶり返したりで、当初2週間の予定だった入院でしたが、ちょうど1ヵ月後8月12日退院となりました。

 それは完治したわけではなく、小康状態になっただけで、酸素マスクをつけたままの退院でした。

 当時、主治医はまだ入院中でした。それで、危篤状態になった場合の看取りは家族がする、死亡診断は、夜中だろうがこの病院の先生が駆けつけるという約束をしたうえでの退院でした。

 これは家族には酷な現実でした。今まで何回も終焉についての話はありましたが、まだ先のこと、それどころか、母はもしかして死なないんじゃないかとさえ思っていました。

 母の入院時、何度目かの面会に来た兄が、状態が良くてすやすや眠る母を見て、
『ばあちゃんはまだこの世ですることが残っとるんやろうなあ・・・』
とぽつりと言ったのを思い出しました。


病室での再会

 母と同じ病室に、同じ町内のおばちゃんが入院していました。母の元カラオケ仲間でもあり、同じ漁師の仲間でもあった人です。

 母の姿を見るのは何年ぶりかで、母の変わりように涙を流してくれました。
『カッコさん!(母の愛称です) しゃんとせにゃあいけんよ! ヨシコでぇ! わかるか?』
 おばちゃんの呼びかけに、確かに母の顔が変わりました。

 父と漁に出ていたころ母が父にきつく怒られていたことや、一緒にカラオケに行っていたころの楽しかった思い出を話してくれました。そのおばちゃんと母が遠い親戚だということもはじめて聞きました。

『あんたのお母さんは好いひとじゃった。お母さんを嫌う人はおらんでぇ』
 何よりうれしい言葉でした。

 数日して部屋を変わると、母の向かいのベッドにまた同じ町内の人がいました。

 なんと、母の同級生、それも大の仲良しのおばちゃんでした。いつも一緒に墓参りに行き、カラオケに行き・・・いつも一緒に行動していました。

 私が住んでいる島の人は、主人が亡くなると毎日墓参りに行きます。母も、父が死んでから母が歩けなくなるまでほぼ毎日墓参りに行きました。母は信心深いとは言い難く、墓の前や家の仏壇の前でお経を上げてるのを一度も聞いたことがありません。それでも毎日墓に行き、花とお水と線香をお供えして帰ってくるのでした。

 母の仲良しのおばちゃんが体の調子を崩しカラオケに行かなくなってから、母も日に日にカラオケから遠ざかっていきました。
 張り合いがなくなったせいでしょうか? 今思うと、そのころから母の認知も始まったように思います。

 母の耳元で、
『お母さん! モモコおばさんがおるよ!』
と言ってみましたが、母は微動だにせず。
『おばちゃん! お母さんもそこにおるよ。 おばちゃん!』
  おばちゃんも何度声をかけても、無表情でじっと天井を見ているだけでした。食事も全介助でした。

 母とおばちゃんが離れて何年過ぎたのでしょう?

 こんなかたちで再会するとは思ってもいませんでした。


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 母を思うとき、なぜかいつも萩の花が浮かびます。

最後の入院

 7月13日、仕事が終わって帰る前に携帯をチェックすると、ホームからの着信が2通も入っていました。留守電も入っていました。

 すぐに電話を入れると、母は病院へ行っているとのこと。病院へ電話すると、詳しいことは病院で話すのでとりあえず来て下さいと。

 いったん家に帰ってから病院へ行きました。

 このころは、やたらにホームからちょっと様子がおかしいので顔を見に来てあげてくださいと呼び出しの電話がかかってきていました。ずっと熱が続いているとか、痰が取りきれないとか、血中酸素濃度(SPO2)が低下してるとかで、わたしが見たところではいつものこと、くらいにしか思っていませんでした。
 看護師さんから、酸素マスクを希望しますか?と聞かれました。

 酸素マスクを使用するには主治医の指示が必要になります。ちょうどそのころ主治医が入院中で指示が得られず、その指示をもらうための入院でもあったのです。

 そんな軽い気持ちで母の病室に行きました。

 ベッドで酸素マスクをつけて眠っている母の顔は、今までとまるで違っていました。

 肺炎と心不全。内蔵も機能が低下しているので、いつどうなっても不思議じゃない状態ですと主治医からの説明がありました。会わせたい人がいたら会わせてあげて下さいと言われました。

 兄2人に連絡をしました。

 今までとは明らかに違う母の顔を見て、兄たちも母との別れが近いことを察しました。

人の不幸は・・

 私が住んでいるのは狭い島だから、いい事も悪いこともすぐに周知のこととなる。
 母の足の手術のことも誰に教えたわけではないが知れ渡っているようで、先日も聞かれ、又今日も聞かれた。

『お母さんはどうな?』
『あんたがわかるか?』
『それでお母さんはどの辺から足を切ったんな?ここか?この辺か?』
 
 矢継ぎ早に質問してくるそのおばあちゃんが舌なめずりでもしているような顔に見えたのは私の僻みか。

『おばちゃん、お母さんは元気よ。』
と言う私に、
『お母さんはもう丸ボケか?』
と畳み込むように聞いて来る。
『足はどの辺から・・』
なおも聞いてくるおばあちゃんの丸い背中を抱きかかえるように、わたしは答えた。
『おばちゃん、お母さんは悪いとこがなくなって楽になったと思ってやって。』

 おばあちゃんは母よりかなり年上だと思うが、母とはカラオケ教室で一緒だったらしい。
『あんたのお母さんとカラオケへ行っておもしろかったのにのぉ。わしゃあ、かわいそうで・・・へてから、どの辺から・・・』
『おばちゃんにはようかわいがってもろうて、ありがとうなぁ』

 まだ聞きたそうなおばあちゃんの背中をさすりながらそう言って、私は店を後にした。

 僻んで取れば不幸が増えるだけ。 
 
 会いたくない人には出くわすもので、お店へ行くたびにこのおばあちゃんと出くわす。こういうおばあちゃんは目ざといのですぐに見つかる。なるべく話はしないで済むように、しら~っと視線を避けて買い物を済ませましょう。                            2006年8月

母の鏡台

 母が化粧した顔の記憶があまりない。母がいつも気にしていたのは薄い髪。

 あ、そう言えば薄い眉も気にしてた。一度だけ母が眉を描いていたことがあった。なんだかいつもと顔が違うなあ・・・と思ってよく見ると、ふとぉ~い眉が目の上に2本。吹き出しそうなのをこらえて、
『なに? 眉、描いたん?』
と聞くと、
『消し炭で描いてみた、どうない?』
という返事。どうない?と聞かれても・・・。
『太すぎるでぇ』
と言うと、母は怒って顔を洗ってしまった。

 いつだったか、ともだちからヘアピースを譲ってもらったから見て欲しいと電話があり、見に行った。頭頂部につける部分かつらで、1万円で譲ってもらったとうれしそうに言う母。かぶってみぃ、と私が言うと、不器用な母は頭の天辺にヘアピースをのせて、どうない?と聞く。

 母の髪の毛は細くちょっと明るめで、真っ黒いヘアピースは滑稽なばかりだった。髪の毛の色が合わないから友達に戻すように言うと、そうか・・と見るからに残念そうに母はヘアピースを箱にしまった。

 その後、ヘアピースを買ったと聞いたことがなかったのだが、鏡台の引き出しには前のとは違うヘアピースが箱に入れたまましまってあった。よほど欲しかったのだなあ、もっと親身になってあげればよかったと後悔の念が。


 美容院へ行っても、髪の少ない母はパーマ液がちょっとで済む。
 親子でも父親似の私の髪は硬く多く、液が人の3倍要ると美容師さんがこぼしたが、そんなときには、髪の少ない母の残りを使ってよ、と冗談を言ったものだ。


 母の鏡台の引き出しには、買ったまま封を開けてない白髪染めや、お出かけのときに気になる白髪にさっとひと塗り、そんな類のスプレーやスティックがたくさんしまってあった。


 化粧品は乳液が1本あるだけで、口紅は1本も入ってなかった。


 引き出しの隅に金の指輪。父に買ってもらったものだろう。そう言えばいつも母の指にあった。

 いつ指輪をはずしたのだろうか。


 手指の硬縮が進み、母はいつも拳を握っている。指の間がただれないように四六時中ガーゼが挟まれている。


 母に指輪をはめてあげるのはもう叶わないことなのだろうか。

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延命治療

 施設に入所すると、契約時には終焉をどう迎えるか?と聞かれます。家族にとってそれは究極の選択です。入所当時は、まず主治医に診て貰う、それから大きい病院へ入院、治療を選択しました。胃婁設置、足の切断をし、母は生きながらえています。胃婁をすると必然的に胃からの逆流、誤嚥、痰が絡み呼吸不全、発熱となります。このころの母はこういう状態が度々起きていました。

 そして再び施設から、延命治療を望みますか?と聞かれました。兄とも相談して母の延命治療はしないと決めました。その旨主治医に伝え、よろしくお願いしますと言いました。私の言葉をさえぎるように、主治医が言いました。

『あんたたちは延命治療はしないと言いながら、際になると東京や大阪から兄弟が帰ってきて、なんでこんなになるまで放っておいたんだと言って病院へ入院させてくれと言う。それで2~3日して死んだら、この病院へ入院したら必ず死ぬと言って病院の評判を落とす。うちの病院の評判も落とす』

 そんなことは言いません、兄とも相談して決めたことですから、と言うのにも耳を貸さず、主治医は続けました。

『延命はしないと言ってもあんたたちは必ず病院へ連れて行けというのだから、そのときは自分たちでいい病院を探してどこにでも連れて行きなさい』

 なんという主治医だと思いましたが、先生が言うように入院を希望する家族が多いということなんでしょうか。今は、母の延命治療望まない、これ以上検査は受けないと決めていますが、終焉を迎えたときにはやはりじたばたするのでしょうか。

 このたび延命を望まないということについて、姪から電話がありました。
『おばちゃん、おばあさんの延命治療をしてはいけないん? おばあさんはまだ84よ』
 でも、今までに嚥下が悪く誤嚥性肺炎で胃婁の手術をしているし、血行が悪く壊死を起こして足も失っている。動けない、話せない、ばあちゃんにこれ以上痛い思いはさせたくないことを姪に話しました。姪にはちょっとつらい現実でした。                     2008年2月

ばあちゃんのカレーライス

 兄弟、姪っ子、甥っ子、息子に娘、全員集まった席で、
『ばあちゃんの料理で一番印象的なのは何?』
と聞いたら、全員一致で、
『カレーライス!』
に決定。

 ばあちゃんのカレーは、よそのに比べてここが違う、とか、味の決め手はこれ!とかじゃなく、
『ばあちゃんのカレーは薄い!』
が全員の意見。

 姪っ子がばあちゃんと一緒にカレーを作ったときのことを話してくれた。

 野菜が煮えたので、カレールーを割って数個鍋に入れたら、ばあちゃんがあわててルーをすくって出したんだそうだ。
『ともちゃん、カレー粉は1個でええ!』

 ばあちゃんはカレールーはひと鍋に1個と決めてたんですね。

 だから、ばあちゃんのカレーはしゃぼしゃぼ、薄かったんですね。

 それにしても全員一致でばあちゃんの思い出の味は、『薄いカレー』とは・・・。


 捜していた母の結婚写真が見つかりました。

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思い出がいっぱいの家

 実家はただ古いだけの家。私が子供のころには、味噌もしょうゆも家で作っていたから納屋には大きな甕が並んでいた。農機具もたくさんあったが、母が使う鍬や鎌だけ残してすべて処分してしまっていた。豆炭を入れるコタツや炭を入れるアイロンもあった。

 中2階が物置きだった。そこに海賊船によくあるような黒い大きなトランクがある。
 (ふたを開けると金銀財宝がざくざく・・・)
 わたしを初め子供は全員、そして私の子供たちも甥や姪たちもみんなそんな期待を胸にドキドキしながらトランクの蓋をそぉ~っと持ち上げたものだ。トランクの中身はみんなの期待を裏切ってぼろのコートしか入っていなかった。

 昔は家でお祝い事などしていたので、膳やお椀、食器、徳利などすべて揃ってた。子どもが小さいころ、足つきの膳を持って帰りごはんをそれに並べて食べさせていたことがあったなあ・・・。
 どれかお値打ち品はないものかと探してみたが、保存が悪いせいでどれも使い物にならない。小鉢や大鉢のよさそうなものは持って帰り、寄付できそうなものは寄付した。

 布団類を粗大ごみに出そうと思い、押入れから出してみた。なんと! 掛け布団だけでも32枚! 敷布団は25枚。 盆正月に子供たちが帰って来たらいつでも寝られるようにと、母はいつもシーツにパリパリに糊をし、支度をしていたっけ。
 粗大ごみのトラックに全部載せ切れなくて、5~6枚の布団が残っている。

 片づけをしていることを話すと、寿司桶があったら譲って、と言う人がいた。

 寿司桶・・・ないわ。

 そう言えば、母の散らし寿司を食べた記憶がない。料理はいつも祖母がしていて、母は畑へ行く人。祖母の大きなきつね寿司は記憶にあるけど、祖母が死んだ後、料理を母がするようになっても、母のすしは食べたことがない。1~2回はまきずしを食べたと思うけど、そのまきずしもいつも芯が真ん中にいってなくて、端っこにあるのはまだいいほうで、ぱかっと開いているのも多かった。
『お母さんのまきずしは、芯がすぐに食べられてええのぉ』
と父が言い、みんなも笑いながらつまんだものだ。

 箪笥には母の着物が少しある。着物を着ることなどほとんどなかった母だ。このコートは父とお伊勢参りに行ったときのだな・・・この羽織はあのとき着てた・・・古いふるい色あせた留袖・・・これは結婚式に来ていた留袖。セピア色の父と母の結婚写真、どこかにそのアルバムがあるはず。(探し中)

 いつか着物リメイク教室に通うゆとりが出来たら、母の着物をよみがえらせよう!

 片付けながら思い出を辿る私なのでした。


2007年6月 再本入所

 ホームへ利用料の支払いに行ってきた。あいにく入浴中で母には会えなかったが、担当の寮母さんにこれから夏に必要なものはないか尋ねた。
 母は寝たきりで暑がりで汗かきなので、着脱が簡単で涼しい甚平さんを持ってきてあげて下さいと言われた。

 そのまま買い物に行こうと玄関へ急いでいると、看護婦さんに出くわした。いつも母を気にかけて声掛けしてくださっている。
 このところ母は私が声を掛けても反応しなくなっている。たまにしか会いに行かない私より、毎日お世話してくださる寮母さんのほうがいいのは自然の成り行きだろう。『お母さん!』と呼んでも反応はないが、『○○さん!』と呼ぶと、『はぁ~い~』と返事が返ってくる。

『この前、お母さんに、娘さんは会いに来た?と聞いたら、来るかいのぉ!と返事したよ』と看護婦さんが教えてくれた。びっくりするくらいはっきり言ったそうだ。
 会いに行ったことはわからないのに、会いに行かないのはわかるのか~と看護婦さんと笑いあった。
『さいさい、来てあげてぇなぁ』
『また来ますからよろしくお願いします』と挨拶を交わし施設を後にした。

 一時入院が3ヶ月を超え退所になってからショートステイでつないできたが、このたび再本入所となった。金銭的にもありがたい。

 買って来た甚平さんは、紺色と薄紫でどちらも桜の模様。洗濯して乾いたので今日仕事帰りに持って行ってきます。



母は生きていてくれるだけでいい!

母の口癖

 母がまだ元気だったころ、私が実家へ行くと母は時計ばかり見る。
『早よう、いにない』(早く帰りなさい)
 まだ早いと私が言っても、
『早よう、いんでご飯の支度をしない』
と私をせきたてた。私の家から実家までは歩いても10分かからない。それでも、夕方5時近くなると母は時計ばかり見て、
『早よう、いにない』
と繰り返した。

 わたしに来い来いと言う割りに、早よう帰れと急かす母なのでした。

 それともうひとつ。

 日帰り旅行に連れて行ったときも、車を駐車場に入れるや否や、
『もう 帰ろうや!』
 今着いたばっかりよ。ちょっとそこらを歩いて見て回ろうや、と言っても、
『わしはここへ座っとるから、あんたらだけ行ってきない』
と、ちっとも歩こうとしない。車椅子借りてあげようか?と言うと、
『そんなもんには乗られない。わしのことは気にせんで、行ってきない』
 そうはいかない! 
 じゃあジュースを買ってこようか?  しっこが出るからいらない。
 アイス、買ってこようか? 欲しゅうない。
 それで結局おっちゃんと交代で観光することにする。
 一回りしてくると、
『もう 帰ろうや!』
 そそくさと帰り支度をする私たちでした。

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 ひ孫とないしょ話  3年位前かな?

いろいろ考えさせられた一日

 母の利用料の支払いに老人ホームの窓口に行くと、
『お釣の支度ができるまでの時間、お母さんの顔を見に行って来ますか?』
と事務の方がいつも声をかけて下さる。姑も胃婁にしているのだがゼリーやプリンはまだ口から食べられる。姑のおやつを寮母さんに託し、母のいるショートステイルームへ行く。

 8月以降職員の移動があったようで、母がショートでお世話になるようになってから初めて会う職員さんだった。利用者の食事介助をしていた職員さんに挨拶をすると、
『面会は長いこと来てないですよねえ?』
と無表情に抑揚のない低い声で責めるように言った。
『前開きの夏用のパジャマが2枚しかないので持ってきて欲しいんですが。それと下着も。かづこさんは出かけることがないから服は要らないんです』
と、タンスの引き出しを開けながら職員は続けた。
 (9月半ばにもなろうとするのにまだ夏服?)
『前回来た時に、寝間着以外の服とズボンを持ってきてほしいと言われたので持って来たんですが』
『あの時は病院へ行くから服が要ったんでしょう?』
『では、前開きの下着とパジャマを持ってきます』
と返事をして母のそばへ行った。

 母に声をかけるわたしのそばで職員さんは私と母の様子を見ている。
 この頃はわたしより毎日世話をしてくださる職員さんの声のほうを覚えているので、『おかあさん!』と呼んでも反応しない。母のほっぺたを触りながら、
『かづこさん、どうな?』
と声をかけると、
『ああ~・・』
とうるさそうに母は顔をしかめた。母の寝間着の胸元を治してやり、ふとんをかけなおしてから母のそばを離れた。
『もう、いいんですか?』
 職員が呆れたように言う。
『これから母の着替えを買いに行って又来ますから』
『そうですか』
 
 色白で無表情、抑揚のない低い声。何とも面白みのない話し方をする人だ。

 ホームを出て買い物に行き、きれいな色の花柄とクリーム色のパジャマと前開きの半袖シャツ2枚と長袖シャツ2枚を買い、再びホームへ行った。
 先ほどの職員の姿は見えなかった。挨拶をし、母の着替えと寄り道をして買った菓子パンを皆さんでどうぞと渡して帰ってきた。

 話し方と聞き方、表情、目の輝きで受けとり方感じ方もずいぶん違って来るなあと、さて私はどうなんだろうと考えさせられた一日だった。


2006年 夏祭りの夜

 母がお世話になっている老人ホームから電話がかかってきた。

『土曜日の夕方夏祭りがあるのですが、来て上げていただけませんか?』

 夏祭りがあるというのは義妹から聞いていたので、即参加の旨を伝え、ゆいかを連れて行くことにした。

 6時過ぎに行くと、ホームの前庭の真ん中にはやぐらが組まれ提灯が下げられ、入所者とその家族がテーブルにつき食事が始まっていた。
 ちょうどバルーンアートが終わった所で、次の出し物のエイサー踊りの人たちが玄関ポーチで出番を待っていた。寮母さん達は浴衣やアロハを着てお盆に料理を載せめまぐるしく動き回っていた。

 母の姿が見えないので、
『こんばんわ。今日はありがとうございます。あのぅ、母は・・・』
と寮母主任に声をかけてみると、
『お母さんは寮母室にいると思うんですが・・・』
 するとまもなく、リクライニングの車椅子に乗せられて母が玄関から出てきた。
『今日はお母さんは機嫌がいいですよ』
 見ると、目もパッチリ開いている。
『お母さん、カヅ子さん! 今日は祭りよ。太鼓、聞こえる?』
 うつろなまなざしは、祭りの提灯の上あたりに出ている白い月のほうを見ている。
『カヅ子さん、月を見てない? 車椅子をもうちょっと起こしてあげようか?』
 そう言って寮母さんが背もたれを少し起こしてくれた。でも母の視線はやはり月を見ていた。

 エイサー踊りに続いて、町内の踊り保存会による『うつみ音頭』、浴衣をドレスに変えて『フォークダンス』と続いた。玄関ポーチで母の車椅子の隣に腰を下ろして踊りを見ていると、通りがかりに寮母さん達が声をかけてくれる。
『カヅ子さん、今日は娘さんが来てくれてよかったね』
『カヅ子さん、踊り、見りょうる?』
 母の耳元に口を寄せて、ほっぺたをさすりながら声をかけてくれる。
 
 フォークダンスを終えた人たちが玄関へやってきた。中の一人が母に声をかけてくれた。ヘルパーを長い間していたしーちゃんだ。母は直接介護をしてもらってはいないが、しーちゃんには母だけでなく姑もかわいがってもらった。母親を早くに亡くしているから、おばさんたちのことは母親のように思っている、としーちゃんはいつも言っていた。

 しーちゃんは母の耳元で、
『おばさん、しーちゃんでぇ、わかるぅ?』
と何度も言った。最近は私が声をかけても表情は全然変わらなくなっているのに、しーちゃんの声に母の目が生きたような気がした。
『おばさん、わかる? おばさん、えらい目に遭うたなあ』
 母の足を案じてしーちゃんがそう言うと、母の左目から涙が一筋つーっと流れた。
 私は驚いてしーちゃんと顔を見合わせた。

 一時、言葉が出なかった。母の涙を指でぬぐって、しーちゃんに、
『ありがとう』
と私は言った。それしか言えなかった。

 やぐらの周りには『炭鉱節』の輪が出来ていた。私は、施設長に手を取られ踊るゆいかを目で追った。ぼんやりと赤い提灯が風に揺れている。
 
 母のまなざしの向こうで、月はもう黄色くなっていた。

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 時にはアロハでおしゃれ!


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ゆいかばあば

Author:ゆいかばあば
《どうにかなる!》で いろんな坂道を歩いてきました
おもしろおかしく 笑って暮らしたいと思っています



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