FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

父の船を待つ母

 仕事では毎日母と顔をあわせているが、じっくり顔を見て話してないので久しぶりに面会に行ってきた。
 
 デイルームではお年寄りが車座になって座っていた。カラオケが鳴っていたが、誰一人歌うでもなく、耳を傾けている様子もない。
 
 列の端に母はいた。車椅子に横になり、天井を見ている。
「お母さん、歌を聞きょうるん?」と声をかけると、
「あんた、誰な?」がっくりくる。
「私が誰か、覚えてないん?」
「知らんでぇ」
 怪訝そうな顔で私を見ている。通りかかった寮母さん達が口々に、
「カヅ子さん、今日は誰が来てくれたん?」と聞いても、
「知らんでぇ」と繰り返す。
「菓子があるんじゃが、あにきに持って帰らせえ」あにきとは次兄のことだ。
「あにきにやるん? 私にはくれんのん?」
「お前にはやらん」
「じゃあ、わたしは誰?」
「誰なあ?」
「あんたの娘はどういう名前じゃった?」
「たえこ・・・」
「そうよ、これは誰?」と聞くと、私の顔をまじまじと見てやっと
「たえこ・・・」と言ってくれた。
「やれやれ、思い出してくれたなあ」と言うと、急に目が生き生きしてきて、
「帰ろうや、帰ろうや」と言い出した。どこに帰るん?と聞くと、母の実家の名前を言った。
 
「浜へ行こうやぁ、船が帰る」と母が突然言い出した。漁から帰ってくる父の船を迎えに出るのが母の日課だった。その頃のことを思い出しているのだろう。

「浜へ行きたいのう」と母が言う。                   2005・5・16
スポンサーサイト

母が見ているのは・・・

厨房で仕事をしていると、食堂からいろいろな声が聞こえてくる。
 
 「コーヒー、くれ~」
 「おっかあ~、コーヒー、くれ~」

 「寒いよ~、寒いよ~」

 「助けてー、助けてー」

 「ぁああ~あ」(あくび)
 
 その中に私の名を呼ぶ母の声もある。

「わたしはここよ、ちょっと待ってよ、もうすぐご飯ができるけえ」

と母の目の前に行っても、母が目で追っているのは若い同僚の姿だ。

「どこを見りょうるんね、私はここじゃが」

と言っても、母は私を見てはいない。

 寮母さんが、「この人は誰?」と聞くと、「誰か知らんでぇ」と言っている。

「娘さんじゃあないん?」と言うと、

「すうちゃんとこのおばさんかぁ?」

と答える。私が、

「娘がおるじゃろ?」

と言うと、

「おらん」

「一人娘がおるのを忘れたん?」と言うと、

「どこにおろうかのう」と怒ってしまった。

 一時して私が母の前を通ると、

「おまえはここにおったんか、いつ来たんな」とびっくりしたように言う。

 母にスウィッチが入ったようだ。

「ご飯、食べた?」と聞くと、

「この頃は、ろくなおかずを食べさせてくれん」と怒っている。食事形態がミンチ食になったので、なにを食べているのかわからないので無理もない。

「元気になったら、またご馳走するけえ、はよう、元気になりいよ」と言ったが、母の返事はちんぷんかんぷんで何を言っているのか理解不能だ。

 最初の一言は出るが、次の言葉は出ない。言葉にならないようだ。

 私たちが仕事をしていると、母は穴が開くほど若い子を見、目で追っている。

 母の中の私はまだ20歳なのかもしれない。

親不孝

 厨房での勤務中に、母は度々私の顔を見にやって来ました。話し相手をしてあげられればいいのですが、何しろ勤務中。ぞんざいな返事しか出来ません。

 わたしの仕事が終わってから会いに行く時間はちょうど警備員さんが見回りをしている時間です。

 母は私の姿を見ると警備員さんを探して大声で呼びます。

『巡査さ~ん! この子を縛ってくださ~い! この子くらい親不幸もんはおりませ~ん!』

 母は私に捨てられたと思っているのです。家にいて面倒見てくれればいいものをこんなところに捨てたと思っているのです。

 見方を変えれば、確かに母を手放したのです。

『わたしを捕まえさせてどうするんよ。もうお母さんに会いにこられんよ』
と言っても、
『会いにこんでもええ!』
と言い続けました。

老人ホーム入所

8月8~13日 ショートステイ。
 落ち着いています。『台風の風が強いので、庭のゴザをしまってくれるように頼んだ』と言っています。


 ショート最終日には、帰らないと言っていました。6日もいると、ホームのほうが良くなったようです。


8月7日  今日からショートステイ。
 朝6時に行ってみると、玄関で転んで口を切っていました。佐々木内科で下唇内側を4針縫合しました。青くなってはれていますが、本人は痛みはないようです。食事はキザミ、おかゆになりました。右手が震えているので、小さいプラスチック茶碗をつけるようにしました。


8月8日  毎日顔を見ているにもかかわらず、『おまえは一切会いに来ん!うそばかり言う』とご立腹です。
     

9月1日  仕事が忙しいと言って私が会いに行かないもんだから、『勘当だ! 親子の縁を切る!』と言われてしまいました。あとで、反省して、『悪かった、こらえてくれ(許してくれ)』と言っています。
 

 ショートステイが21日まで延びました。引き続き本入所となりました。


 一日に何度も私が仕事をしている厨房へ会いに来ますが、何度来ても初めて来ているらしく、何度も厨房へ来ています。仕事中で忙しく、話は出来ないと言うとすごく怒ります。自分の思うようにならないと腹が立つようで夜はやはり眠れない日が多いようです。


9月2日  お金を持ってきてくれ。魚を売りょうるから買って炊く。


9月5日  船はもう売ったんか?
 今朝浜へ行ったら、つぐみさんがおったけど、ものを言わんけぇ腹が立った。


9月10日  『今日は芋つぼ(昔は床下に穴を掘ってサツマイモを保管していた。芋つぼとはその穴のこと)で寝る』と言っています。

 おやつやごはんは巡査が持ってくると言っています。

 職員さんにも、『芋つぼで寝ようやあ!』と言っています。

 最近はひいおばあさんが話の中によく出ます。


9月13日  なにが困ると言えば、食堂に来て、厨房のほうに向かって、私の名前を叫ぶことです。これには参ります。


img013s.jpg


 母の後ろにいるのが姑さん。 2人ともショートステイのお世話になっていました。

家と老人ホーム

 このころ私は母がショートで利用している老人ホームの厨房で働いていました。勤務に入る前に母に会いに行き、仕事が終わってから母の部屋を覗くようにしていました。


7月17日  午前中会いに行ったときには落ち着いていたのですが、午後から、帰る帰る!と興奮して、『家には高校生と中学生の子供が2人おる。船が帰ってくるから船のところまで連れて行ってくれ! 連れて行ってくれんのなら、あんたらを警察にねごうたる(訴える)』と困らせたようです。ホームからのSOS電話で駆けつけたのですが、以後電話したらすぐに駆けつけると言う条件付でショートステイのOKが出ました。


7月18日  午前中会いに行ったときには落ち着いていました。

 若い寮母さんのことを『あの子はうちへ餅を拾いに来た』(祝いの餅投げのこと)

 『魚を陸へ揚げたので肩が凝った』


7月22日  次男はどうも××屋の△△さんの子らしい。昨日初めて知った。どうりでここでごはんを食べんはずじゃ。 (ばあちゃん、爆弾発言ですぞ)


 天井から黒いものが落ちてきて一晩中寝られんかった。天井に穴が開いてしもうた。

 次男が裏口に穴を開けてしもうて外に出るのに弱った(困った)。
 あいつロクなことをせん!

 朝、魚を炊いて鍋に入れたまま置いてきてしもうた。もう腐っとるかもしれん。捨ててくれ。

 花と魚をたくさん買ってきた。冷蔵庫へ入れといてくれ。

 昨日買うた魚、炊いたか? どんな魚じゃったか?

 部屋の壁に穴が開いてしもうた。

 おうく(荷物を担ぐときに使う棒)がなくなった。探してくれ。


7月30日  時計の見方がわからなくなったようです。

 あそこで寝とるのは、うちのおばあさんの子でぇ。

 おばあさんが風呂屋へ行ったまま帰ってこん。探してきてくれ。


 被害妄想、幻想が始まったようです。


8月2日  明日からショートだと言うと、なんで行かにゃあいけんのか!と興奮して、怒ったり泣いたりで、一時ショートは見合すということにしました。
 10時半に行くと、門まで歩いて出ていて、手足を震わせていました。私を怒らせたのであやまりに行こうと思ったと言っています。

 夜8時半に行ったとき、ガシャーンと大きな音がして、びっくりして行ってみると、玄関で転んでいました。『庭に筵をたくさん積んでいるので片付けた』と言っています。
 家の中は、服をばら撒いて、台所のテーブルを動かして、テーブルの上にスリッパを置いてありました。
 睡眠薬を飲んだのに、興奮しているせいか眠れないようです。ヘルパーさんも来てくれました。


8月3日  朝5時半に行くと、起きていた。
 『夕べは風が吹いて眠れんかった。夜は明けんし、もう眠とうなったから、寝るから帰れ!』



8月6日  夜8時に行ってみると、小雨の中玄関の外に座り込んで傘をさそうとしていた。 『ここはどこの家か?』と聞く。家の中につれて入ると、また、『ここはどこか?』と聞く。 ショートステイを利用することで、家とホームがごちゃまぜになってる。 認知が始まってから居場所をたびたび変えるのは母にとってマイナスになってしまったようだ。



8月7日  名前・生年月日・住所は言えるけど、何歳?と聞くと、『70くらいかのぉ』と言います。80が近いと教えると、『おそろしい~! 80か!』とびっくりしている。少しして、また、今度は、『90か~! 足や手が痛いはずじゃ』とびっくりしている。

ショートステイとヘルパーさんと近所の人

7月10日  午前5時半。 実家に行ってみると、もう起きていて網戸を開けていた。

 『うちの嫁は朝早うから起きてめしを炊きに行っとるらしい。起きたらもうおらんかった』

  7時55分までは間なしに電話がかかってきましたが、以後なし。



7月11日  電話がかからなければかからないで心配なもので、午前5時に行ってみると、玄関も開いていた。玄関は隣のおねえさんが開けてくれたそうだ。電話は受話器が元から抜けていた。昨日は尾道から飯炊きが来た、とか、今朝は2人で体操をしたとか、めちゃくちゃ。
 うちの電話番号がわからないそうです。


7月12日  ヘルパーさんは神様じゃ!



7月13日  11日にうちの電話番号を大きく書いてあげた後、昼までは電話がかかってきましたが、以後一人ではかけられないようで、ヘルパーさんにかけてもらっているそうです。



7月16~19日   ショートステイ。


7月14日  兄より電話あり。
 すぐにでもつれて帰り養老院へ入所させるつもりでいる様子。今の状態ではそれも無理はない。


7月15日  午前5時に行ってみると、隣のおねえさんに網戸を開けてもらっていた。
 おにぎりを1個食べたあと、トースト1枚と牛乳を1杯。おにぎりを包んでいたラップをゴミ箱に捨てたはずですが、ゴミ箱を探したようで、テーブルの上に在ったそうです。

 今朝行くとゴミ箱にズボンを入れていました。捨てるの?と聞くと、捨てない、そこへしまっているのだと言います。

 デイの帰り、『早く帰らないと船が帰ってくる。魚を揚げないといけないので早くつれて帰ってもらった』と言っています。

 ショートステイの支度をしてあげる。


7月16日  ショートの荷物を黒いかばんにつめたのですが、『あの黒いかばんは誰かいのぉ?邪魔になる』と、ショートに行くことを忘れている。
 昨日はヘルパーさんに、『あんたには大変世話になった。何の礼をしようかいのぉ』と御礼を言っていたのにすっかり忘れて、『どこへ泊まりに行くんかえ?』と言っています。

 折れた新しい入れ歯を袋に入れていると言うので出してみると、入れ歯がカステラをかじったままの状態で出てきたので大笑い。
 本人さん、『誰が食べたんない?』とケロリとして聞きます。冷蔵庫の中に入れておいたカステラを全部食べていました。仏様のせんべいも。


 本日、ホームに着くなり、『帰る!』でした。送りの車は4日先でないと来ないと言うと、それならバスで帰る!と言っています。風呂に入りましょうと言われても『入らん!』 強硬に連れて行かれました。

進む認知3

7月4~6日 ショートステイ。

 9時。迎えの車。『おまえは車に乗らんのんか?』
 支援センターの職員さんに『このおにいちゃんは知っとる。あんたも行くんな?』と聞いている。

 私は今日は3時半からの勤務でしたが、何度も寮母さんに私が働く厨房へ連れてきてもらったそうです。

 私の顔を見るなり、『おまえがおらんけぇええ心配をした。明日帰るけぇ、渡金(運賃)をくれ』と言っています。職員さんを見て、『このおにいちゃんはここへおるがやぁ。あんたも泊まるん?』

 私の顔を見て母は安心したのか、寮母さんに連れられて居室へ行きました。
 仕事が終わって8時過ぎに部屋を覗くと、寝ていました。


7月6日(日)

 ホームを自分の家だと思っているらしい。
 床も障子も夫が張り替えたと思っているようで、『孫の守りもせにゃあいけんのに、礼を言うといてくれ』と言っています。

 『わしは2階で寝た。布団をしまわにゃあいけん。
 黒の背広を持って帰ってくれ。郵便局へ黒のズボンを預けているので取りに行かにゃあいけん。
 これからは別々に食べようや。
 温泉へ行ったのに、ヘルパーさんに土産を買うて来るのを忘れた。
 ホームではそばしか食べんかった。あんなもんはいつでも食べようる』

 支離滅裂。


7月7日(月) 午前5時 TELあり。  今日はフロか?

 6時  弁当はいつ来るか?

 6時45分  弁当はいつ来るか?

 7時35分  弁当はいつ来るか?

 7時40分  弁当はいつ来るか?

 7時45分  弁当はいつ来るか?

 13時30分 多田先生 お願いします。 (うちの電話に伝言を残す)

 13時40分 多田先生は何回電話してもおらんかった。

 入れ歯がなくなったというので、古い入れ歯を入れさせましたが、どうも顔がおかしい。口を開けさせてみると、上下逆に入れていました。新しく作った入れ歯はベッドの向こう側に落ちていました。


7月8日  午前5時 TELあり。 今日は結婚式か?

 5時半  今日はなんか?

     フロだと答えると、
     何時か? どうやって行くんか?

     玄関まで来てくれるというと、
     どこの?


 ホームでのことですが、食堂で席についているとき、私の姿を見つけて厨房まで来ようとして立ち上がって歩こうとするので、回りの人や寮母さんが危ないから座っときなさいと注意すると、ひどく怒って、『なにをいらんことを言うんか!』と大声を出していました。自分では歩けると思っているらしく、立ち上がろうとして何度も寮母さんに注意されたそうです。寮母さんを呼んでもすぐに来てくれないので不満だったようです。

 タオルたたみの手伝いをしていましたが、うまくたためませんでした。



7月9日  今朝は電話がなく心配しました。うちの番号がわからなくなったようです。

 隣のおねえさんがバナナを持ってきてくれたとき(午前5時半)、縁側の網戸を開けて足を下に下ろしていたそうです。
 『もう死ぬからバナナはいらない』と気が立っていたそうです。

 10時に行くと、
 『今朝は隣のねえさんに悪いことを言うてしもうた。あやまらんといけん。おまえも謝ってくれ』と言っています。

 『うちの嫁は(ヘルパーさんのこと)牛乳を買いに行ったまま帰ってこん』と5分おきに言っています。11時半にヘルパーさんが来ると、『来たんか! うれしい!』と言っています。『えらい長いこと帰ってこんかったが、魚を売りょうたんじゃのぉ』


進む認知2

6月29日(日)
  
  『寒いから火鉢を出してくれ』

  『門のところの竹を片付けなさい』

  『車(老人カー)を押して歩くから車を出してくれ』

  『(パンを食べた後)ごはんがええ、ごはんを食べんかい』

  ばあちゃんの世話をしていた姪には無茶を言うそうです。ヘルパーさんや私が帰った後は、一人でさっさと這って移動しているそうです。
  トイレも一人で立ってパンツを下ろして用を足しているそうです。

  うちにTELしてきて、電話を切る際には、ここでは書けないような下品な捨て台詞です。



6月30日  朝6時15分 TELあり。

 『この時計はなにを書いとるんか?』と聞くので読んでみなさいと言うと、数字を読み上げます。それはうちの電話番号だというと、『これは電話かぁ。それならうちの番号は?と聞くので、家の番号は覚えんでもええよ』と答えると、『電話かぁ・・・』と言いながら電話を切った。


 7月4・5・6日、ショートステイを申し込んできました。
 『おまえも入るんか?』と言うので、わたしはマンマ炊きに行くんよと言うと、それなら泊まりに行ってもいいと承諾してくれました。
 『おまえも泊まるんか?』と言うので、最初は私は8時ごろには帰ると言ったら、『わしも泊まらん』と言っていましたが、私が泊まると言うと、『おまえが一緒に寝るのなら安心だ』と言っています。

 『おまえがホームへ泊まったら、ゆいかが泣かんか?』と心配しています。金曜日の朝食後、ホームへ行きます。


7月1日  午前5時20分 TELあり。
    
 何時に行こうかのぉ。
 おかげをもろうてこう。(どこへ行くと思っているのでしょうか?)

 6時35分  毛布を巻いたら、よう歩かれた。

 7時10分  財布をどこへ置いとこうか?

 7時    弁当がまだ来ん。


7月2日  午前5時10分 TELあり。

 今日はフロか?
 今日は多田先生へ行くんか?

 6時50分  今起きた。相手はまだ起きて来ん。親の家へ行って寝ようるんじゃ。まだ寝とこうか?



 おまえは船で寝りょうるんか?
 ゆいかも船で寝りょうるんか?

 夕方TELあり。
 つぐみさんは今日は船で寝るんか?
 おまえも船で寝るんか?

 ヒロ君(私の次男) おばあさんは寂しいけぇ、一緒に寝ろうやあ。


7月3日  午前5時20分 TELあり。

 おまえはまだ寝よんか?
 わしも寝ろうか?
 何時に起きりゃあええか?

 7時 TELあり

 『弁当が来ん』 あと30分待ちなさいと言うと、『7時半まで待とうや』

 ヘルパーさんにも『あんたは沖へ行っとったんか?』

 7時50分 ヘルパーさんが来たでぇ

 9時40分 買い物にはいつ行くんか?
     わしもついて行こうか?

 10時  まだ買い物に行かんのんか?

 10時2分 わしを忘れて行きなんな。


7月4日  午前3時 TELあり。 いつ起きりゃあええんか?

 4時半  まだ起きんでもええか?

 5時   まだ起きんでもええか?
 
 5時半  まだ起きんでもええか?
 
 6時   誰も起きて来ん。沖へ行ったんか?
         ヘルパーさんは今日は来ん。後、何時間待つんか?

 6時55分  今日は弁当が来ん。

 7時10分  今日は弁当はもう来んのぉ。

 7時40分  サロンパスがない。(ベッドから落ちたらしい)


 ヘルパーさんに、九州の別府温泉へ行ってくるから留守番をしょうってください、と言ったそうです。

進む認知

6月21日(土)  朝5時半電話あり。『おまえはどこにおるんか? 家へ戻りなさい。おまえたちばかり朝ごはんを食べて、わしには食べさせんのか!』と怒っている。 実家へばかり帰っていたら離縁させられる、とわたしが言うと、 『そんな規則誰が作ったんか!どっちが間違うとるか、人に聞いてみたらわかる!』 ひどくご立腹。 わたしが嫁に行って、家にはいないと言うのがわからないらしい。 10時から11時まで5分おきに電話あり。『昼ごはんがない。ヘルパーさんが来ない!』 まだ1時間あると言うと、『時計を1時間進めようか?』とめちゃくちゃ。


6月22日(日)  朝5時半電話あり。 近所の人が亡くなったから、香典はヘルパーさんと2人分いるか? そんな事実なし。今朝もめちゃくちゃ。 6時電話あり。『うちへ電話してもかからん。電話番号を教えてくれ』 自分の家に電話してもかからんよと教えても、『なんで?』と理解できていない。わたしと通話中も電話番号を押してる様子。 うちの番号も度々間違えるらしく、通じないと怒っている。


6月23日(月)
 午前5時半 TELあり。

 弁当はいつ来るんかいのぉ? まだ来んが。

 6時  TELあり。
     
 フロ(デイサービス)はいつかいのぉ?

 7時  TELあり。

 弁当が来ん。

 7時45分 TELあり。

 弁当がまだ来ん。
 おまえは今日は沖へ行くんか? (私は漁師をしていると思っている)

 10時半、紙パンツを持って実家へ行ってみるとテレビの画面が砂嵐状態になっていて、母は座敷を這いまわっていた。

 テレビがガーガー言って、恐ろしい、恐ろしいと言っている。

 12時10分  テレビが映らんから来てくれと言うので行って見ると、テレビはなんともなってない。カラオケのレーザーのスイッチが入っていたので、これはカラオケのスイッチだから入れてはいけないと教えた。
 『これがテレビか?』と言っている。スイッチに白テープを貼ってあげたが、縁側へ行くまでにはもう忘れていて、『スイッチはどれか?』と聞いてくる。



6月24日(火)
 午前3時半 TELあり。

 今日は神楽か?

 今日はフロだと言うと、『足が痛いのに、どうやってフロへ行こうか? お前とこのおっさんに車で連れて行ってもろうてくれ』
 迎えの人が玄関まで来てくれるから心配いらない、と言うと、
 『それまでが弱る(困る)足が痛いのにどうしようか?』
 まだ3時半だから寝なさい、と言うと、『今、3時半じゃ』と平気です。

 3時35分 電話を切るとすぐにかかってくる。
 飯炊きはどこのねえさんかいのぉ?(ヘルパーさんのこと)
 風呂の支度を手伝うてくれると言うたから、電話してみる、番号を教えてくれ。

 6月25日(水)

 午前4時50分 TELあり。

 財布がない。


6月26日(木)

 沖へ行っとったんか?
 今は網か? (漁の方法らしい)
 よく獲れるか?
 昨日は船をたでに来ると言うとったのに来んかった。たいぎぃなったんか?
 (船をたでる、とは船底についた牡蠣などを取る為、定期的に船を陸に上げ船底を焼きながら牡蠣を取る事)

 10時40分 TELあり。

 (ヘルパーさんが)弁当を取りに帰ったまま持ってきてくれん。なにをしようるんじゃろうか?

 10時45分 TELあり。

 まだ弁当が来ん。
 多田先生(主治医の先生)も来ん。


 介護認定がおりました。「3」でした。
 早速老人ホーム入所申請書を提出しました。


 6月27日(金)
 
 体温36度9分。
 不思議にデイサービスに行く日になると、熱が出ます。

 『おまえが沖へ行っとる間、この子(ゆいか)は、よう寝るか?』

 『今日は誰も来ん。昨日来たねえさん(ヘルパーさん)は今日は魚を売りに行っとる。

 夕方4時過ぎにデイから帰った後、家の中に誰もいないので大騒ぎして緊急ボタンを又押したそうです。家に自分ひとりしかいないというのがわからないようです。



 6月28日(土)

 老人会のYさんから本家へTELあり。わたしに家へくるように行ってくれと頼んだらしい。10時半に行ってみると、玄関の上がりたてで転んで動けないでいた。起こして座敷に寝させた。11時半にヘルパーさんが行ってみると、又転んで右ほほを打ったらしく赤くなっており、熱も出していた。38度3分。多田先生に来てもらった。

 『お父さんが山から竹を切ってきて、門のところに置いとる』


  姪とばあちゃんの会話。
ばあちゃん) おばさん(わたしのこと)はどこで仕事をしようるんか?

姪) 老人ホーム

ば) どこで仕事しようるやら、わかるかい!

ば) おばさんはどこへ行ったんか?

姪) おばあさんのストローつきコップを取りに帰ったよ

ば) うそ!うそ! 

   なんと信用のないことです。


ばあちゃん、こわれた?

5月3日(土) 朝4時50分に電話あり。『食パンを買って来てくれ』 朝早くから電話かけないように言うと、『わかった。悪かった。2度と電話はしない。死にそうになっても電話しない』と憎まれ口。


5月7日(水) 多田医院より電話あり。母が左手小指を骨折したらしい。すぐに病院へ連れて行く。テープで小指を固定して3週間動かしてはいけないとのこと。午後より徳島へ連れて行く。徳島には長兄夫婦が住んでいる。


5月12日(月) 徳島より電話あり。家へ帰ると言って聞かないらしい。一日中兄嫁を放さず困ってる様子。2階のベランダでおしっこをしたらしい。


5月18日(日) 次兄が徳島まで迎えに行く。


5月21日    朝6時40分に電話あり。『今日はフロか?』 以後9時半までに同じ内容の電話が6回ある。11時半 『明日はフロか?』 11時40分、右手にしていたサポーターが見当たらないと言う。怪我をしたのは左手だと教えると、『左かぁ・・・それならほうっとこうか』 12時までに電話3回。『明日はフロか?』の電話が午後6回かかる。


5月28日(水)  今日もガステーブルのスイッチが入ったままで火が消えていた。


5月29日(木)  トースターと電子レンジの違いがわからなくなっている。


5月30日(金)  朝5時50分に電話あり。『今日はフロか?』 昨日は昼前に食事の支度に行くと、『何しにきたんか! こんでもええのに!』と言っていた。骨折していて、指を動かしたら腫れが引かないということがわかっていない。自分では何でもできると思っている。小指が折れているのに、自分では手首が折れていると思っている。手首じゃなくて折れているのは小指だと教えると、『小指か!』とびっくりしている。 夕方、近所の人に、『食べるものが何もない。娘が作りに来てくれんから弁当を頼みたい。どうしたらいいのか?』と聞きに行ったらしい。行ってみると、晩のおかずは手付かずで冷蔵庫に入っている。ゴミ箱にカップヌードルの空があったので、食べたようだ。わたしには、『おまえは忙しいから作りに来なくてもいい、自分でするから』と言う。怒ってはいけないのはわかっているが、ついつい声が大きくなる。


6月2日(月)  介護認定の見直し申請を19日にして、今日、保健婦さんの聞き取り調査があった。 いつものように歩いてくださいと言われ、背筋をピンと伸ばしてさっさと歩くのにはびっくりした。いつもは半分に折れてとぼとぼとしか歩けないのに、いいところを見せようと張り切ったようだ。


6月3日(火)  朝、腰が痛くて腰が立たないと電話あり。昨日腰を伸ばして早く歩いたのが祟ったようだ。悪いことをした、と反省している。


6月6日(金)  歩けないのでトイレが間に合わず、汚れた下着が袋に詰め込んであった。


6月9日(月)  寝たままごはんを食べる始末。 わたし一人の手に負えなくなった。ヘルパーさんに朝昼夕方来てもらうことになった。 トイレが15分おき、一人では着脱が出来ない。トイレのたびに失敗。


6月18日(水)  朝3時からおきてヘルパーさんを待っているそうだ。 パンツをはかずにズボンをはいているので、着替えさせようとすると『子供が落ちる』と言ってズボンを押さえている。ばあちゃん、こわれた?


img005s.jpg






母と姑

 わたしが嫁いだのは同じ町内で、細い道を挟んで向かいが本家。うちの玄関と本家の勝手口が目と鼻の先です。

 ちょっと大きい声で話すと全部筒抜け。母はうちへ来たいけれど本家に遠慮して来られない。たまに来ても、母の声を聞いて姑がやってくる。姑は邪魔をしようという気はなく、ただ母に挨拶したいだけ。それでも母は気詰まりで、
『おまえとこへ行ったら本家の姑がすぐにやってくる。気兼ねでいけない』
といつも言っていた。

 時には昼ごはんを食べていても、姑がいつ来るかびくびくしながら食べるもんだから、
『おまえとこで食べたら喉に詰まる』
と、すすめても食べずに帰ることが多かった。

 母が来たのが本家にすぐにわかるのは、母がうちの犬(チャーリー)に声をかけるから。黙って入ってきなさいと言っても、母は必ず、
『チャーくん! チャーくん!』
と大きな声でチャーリーに話しかけるのだった。

 母と姑は対照的で、姑はきびきび動き、言いたいことは言い、いわゆるシッカリ者。母はおとなしく人の嫌うことは言わない、いわゆるお人よし。
 母の日のプレゼントは、姑には少し派手かな?と思うくらいのものを、母には地味かな?と思うもの。巾着袋や部屋着も縫ってあげるときは2人同時に縫って渡さないと二人とも機嫌が悪かった。
 母のほうがたいてい下手に出ていたけど、カラオケだけは母は自信があって、母、歌う人、姑、レイをかける人。

img023s.jpg

 姑は母より4歳年上だったが、認知症が始まったのは2人同時期だった。

 姑はいつも忙しく動き回り、一箇所にじっとして作業する人ではなかった。それが裏目に出て、天ぷらをしながら足りないものを近くのお店に買いに出て話し込んでしまい、帰ったときには消防車が来ていた。台所一部屋を焼く小火で済んだのだが、そのときの姑の恐怖や後悔は計り知れない。その上に舅にひどく怒られたものだから、その日を境に認知が始まったのだった。

 姑はピンと張った糸が切れ、母は緩んだ糸がもっと緩み・・・2人の認知の始まり方をわたしはそう解釈していた。

認知の始まり

 母の性格はもともと天然で、いつから認知が始まったのか定かでない。
(おかあさん、ちょっとおかしいんじゃない?)と兄に相談しても、むかしからああだった、と言われれば、そうかなあ?と。

 あれ? と思ったのは、実家の台所の隅に水の入ったミキサーが置いてあったときで、(ジュースでも作ったのかな、珍しいなあ・・・)くらいにしか思っていなかった。2~3日たってもまだそのままだったので母に聞いてみると、
『このポットは壊れている。いつまで待っても湯が沸かない』と憤慨している。
 冷凍コロッケを湯がいて、砕けてしまって、
『おまえはうそを教えた』と怒ったり、そのうち炊飯器のスイッチの入れ方がわからなくなり、テレビのつけ方も玄関の鍵の掛け方までわからなくなってしまった。

 あれよあれよと言ううちに認知が進み、隣近所を巻き込み、やたらに転ぶようになった。

 朝5時に実家へ行き母の様子を確かめ、いったん家に帰り家事をして8時過ぎに実家へ行き、昼間はヘルパーさんに来てもらい、週2回デイサービスも利用することになった。

  
 そのころの母の様子を記録したノートがあります。

15・1・17  孫がさっきまでいたのにいなくなった。どこへ行ったのか?と電話あり。幻覚?
 
1・21  夜何度も電話がかかる。帰ってきたか?帰ってきたか?と同じことを何度も。
  
1・22  朝6時過ぎに電話あり。ゆうべは何の用事だったのか忘れた。今日は病院へも行かにゃあいけん。 忙しいのが不満らしい。

1・23  電話あり。今日は火曜日か?
 金曜日だと言うと、土曜も日曜もデイに行くんじゃろうが、と言う。火曜と金曜に行くのだと教えると、日曜日に行かんだけじゃろう? わからんけぇ、紙に書いとこう。
         
 また電話あり。
 金曜に行くだけか?
 火曜と金曜だと答えると、金曜を先に書いてしもうた、どうしよう?
 どっちが先でもいいよと言うと、わからん!と言って電話を切る。
 同じ内容の電話が短い間に何度もあった。

1.25  聞きたいことがあると言うので行ってみると、
 デイサービスはいつ行くのか?  わからないらしい。
 日めくり暦に印をつけようと思ったら、もう1月31日になっている。

1・26  朝7時に電話あり。
 今日はデイか?
 違うと言うと、朝早くから起きて支度をしたのにと憤慨している。
 デイは火曜だと言うと、『それなら明日じゃのう』
 今日は日曜だと言うと、『日曜かぁ・・・』

 8時電話あり。
 今日はごみを出す日か?
 今日は日曜日だから、ごみは明日よと教える。

 夕方2回電話あり。
 デイでシャンプーしてもらうのをやめようか?
 理由は、シャンプーすると髪が白くなると信じ込んでいる様子。シャンプーしてもしなくても白くなるものは白くなると言っても聞き入れない。シャンプーしなかったら臭くなるよと言っても納得していない様子。

1・27  朝7時に電話あり。
 今日はどうしたらええんか?朝早くから起きて支度したのにデイから電話がかからない。

 今日が何曜日で、いつデイへ行くのか? そればかり考えているようだ。

1・28  歯が痛いから明日タクシーを呼んでくれ、と電話あり。予約する。

1・29  歯は治ったのでもう行かん。 タクシーキャンセル。
 あとで、やっぱり行けばよかったと言うので、再びタクシー予約。

1・30  タクシーは8時半にきたのに、9時になっても来ないので心配したと運転手さんに言っている。 時計の見方がわからなくなったようだ。

母が重くなる

 母に痴呆が始まった頃、私の職場は家からバイクで15分ほどの距離にあった。 昼休憩になると電話がかかるようになったきた。内容はいつも、仏様に飾る花を買ってきてくれとか、レンコンを買ってきてくれとか、そんな買いものを依頼するものだった。わたしは昼ご飯を大急ぎで済ませると、毎日のように買いものに走り回った。
 
 仕事帰りに母の家に寄り頼まれたものを渡すと、いつもといっていいくらい、もういらないからあんたが持って帰り、と言った。
 長靴がないから畑へ行かれない、すぐ買ってきてくれ、と言われ、町外のホームセンターまで走り買って持っていくと、いらないからあんたが履き。
 こんな調子で、まさしくわたしは母に振り回されていた。母は私に用事を言いつけることでわたしを呼び出していた。わたしに会いたかっただけなのだ。

  私は自分の家のことはほったらかして、母の家にほとんど居づっぱりだった。母はもう自分のことしか考えていなかった。母にしてみれば、まだまだわたしにかまって欲しかったのだ。
 
 母が元気な頃は、心配しすぎるくらいわたしのことを心配していた。いつだったか、母が泣きながらわたしに電話してきたことがあった。
 「お母さんはおまえがかわいそうでいけん。おまえはパーマをかけるお金もないんか?お金をあげるからパーマをかけなさい」と言って泣いている。わたしがパーマをかけないことをお金がないからかけないのだ、不憫でたまらないと言っている。わたしはただかけないのが好きだからかけないだけで、髪に金をかけてないことはない。母の年代にはストレートヘアが考えられないのだ。

 生活費が足りない時はいつでも言いなさい、お母さんが貸してあげる、というのが母の口癖だった。

 母の家に行くと、いつも野菜を持って帰れとか、魚を買ってあげたから持って帰れとか、自分はつつましく生活して、わたしには何やかやと買ってくれていた。
 
 わたしに孫ができた頃から、母にすれば孫にわたしを取られてしまった気持ちになったようだった。
「おまえはわたしより孫の方がええんじゃなあ」と、孫に嫉妬するようになった。
 孫に娘を取られ、自分は誰にも構ってもらえないという気持ちも母の痴呆を早めた一因のように思う。

 わからないことを言って困らせる母を見ているのはつらい。
「わたしにじゃってつらいことがあるんよ。お母さんに聞いてもらいたいこともあるのに、お母さんはもうわたしの話を聞いてくれんようになってしもうたんな?」
 なにもわからずきょとんとわたしを見る母の前で、わたしは泣きながら訴えていた。

 このころからわたしは高血圧症になり、不整脈も始まり、母を見ながらできる仕事をしようと思いその仕事をやめた。

『川の流れのように』を聞きながら 母の人生を思う③

 父は58歳で死んだ。遠く富山の病院で死んだ。徳島の病院から富山の大学病院に転院する時、母は父についていった。父危篤の知らせを受け、父の弟二人、父の友達、祖母と私と次兄家族は富山に行った。
「お父さんは もういけんのんよ」
と母はうなだれて言った。危篤状態は1週間ほど続いた。最後の日、父は母にちり紙を取ってくれ、と言った。ちょうど手元になく、母は売店で買ってくると言った。父は母をきっとにらみ、「なにをしょうるんない」と声を荒げた。父が息を引き取った後、母がぽつりと言った。
「あ~あ、死ぬまでおこられた・・・」

 父が死んだ時、母は55歳だった。後には姑が残った。姑は父が死んですぐ、少し離れた隠居に引っ越してしまった。「息子のおらん家に、嫁と二人では住まん」という理由で。母は、父の墓前で、
「死ぬ時には姑も連れて行ってくれと、いつもたのんどったのに・・・」
と愚痴った。
 姑は朝昼晩のご飯時だけ帰って来た。それは姑が呆けて寝込むまで続いた。呆けて寝たきりになり母の手にかかるようになっても、姑は相変わらず姑だった。
「この家はわしらが建てた家じゃけえ、おまえは出て行け」
「わしははじめからおまえは気にいらなんだ」
と母に言い続けた。それでもおしめ交換だけは、母にしてもらうのがいいと言ってわたしや兄嫁には触らせなかった。
 姑は、死ぬ前夜母を枕もとに呼び、母の手を誘うように布団から手を出し、
「ねえさん・・・ねえさん・・・」
と何度も母を見て頷いた。翌朝、姑は息を引き取っていた。昨夜母の手を取り名を呼んだのは、礼を言っていたのだと、母は言った。
 母の苦労が報われた一瞬だった。

 母の本当のひとり暮らしが始まった。大家族に嫁ぎ、苦労して泣き、「一人になりたいのぅ」といつも言っていた母だった。

img024s.jpg

 写真は父が亡くなる前年、日光東照宮にて。

『川の流れのように』を聞きながら 母の人生を思う②

 母は40歳の時、卵巣脳腫の手術を受けた。手術前、母は私を連れて同じ宇部に住んでいた母の甥っ子(母より年上)の家へ何度も行った。手術が怖いと母は泣いていた。
 手術後、母のふとんのおなかのあたりは傷を保護する器具で膨れていた。母のベッドの脇の椅子に座り、わたしは見舞いにもらった無花果の缶詰を生まれてはじめて食べた。父はりんごをすりおろし、母に食べさせた。

 父と母が宇部を引き払い帰ってきたのは、わたしが5年生のときだった。それからは、母は父と一緒に漁へ出るようになった。母の仕事は、揚がった魚と海老とごみを選り分けることだった。不器用で手の遅い母は、父によく怒られていたようだ。痴呆が始まったころ、父にひどく怒られたと私に訴えた。

 6年生の時。朝起きるとふすま越しに母と姑の声が聞こえて来た。母は泣いているようだった。私と弟はふとんの中で、息を殺して母の泣き言を聞いていた。
「この子等がおらんかったら、とうの昔に親のうちへ帰っとる」
母は泣きながらそう言っていた。(親のうちへ帰る)その言葉だけが私と弟を不安にさせた。
「今日は姉ちゃんが学校を休むけえ、あんたは学校へ行き」
わたしは弟にそう言ってその日は布団の中から母の様子を覗っていた。
 今ならよくある夫婦喧嘩だとわかるのだが、その頃の私にそれを理解できるはずもなかった。

 小さい蟹や雑魚は干して肥料にされた。乾いた雑魚を、母はカラサンという器具で叩き潰して肥料を作った。
 母はいつも白い割烹着を来ていた。それに日本手ぬぐいの姉さんかぶりの端を歯で噛んで飛ばないようにしていた。手をかざしまぶしそうに陽射しを仰ぎ見る母の姿が強烈に記憶に残っている。

 私達兄弟4人は、割と勉強がよく出来た。それを母の同級生から言われる時に、
「あんたは勉強ができんかったのに」が必ず付いてくる、それを言わんでもよかろうが、と母は怒っていた。それでおかあさんはどうじゃったん?と聞くと、
「いつもアヒル(乙)ばっかりじゃった」と笑った。

 兄が船長になったとき、母は、「兄貴が船長になったって、わしには何もええことがない、嫁がええばっかりじゃ」と嘆いた。苦労して学校へやったって・・・と続けた。
「ええの、ええの、そのえらい子を産んだんは、あんたなんじゃけえ、誇りにしとき。それが親の勲章よ」とわたしはわけのわからない言葉を母に言って慰めた。
「そうよのぅ、わしが産んだんじゃけえのぅ」
と変に納得して母は喜んだ。

img021s.jpg

『川の流れのように』を聞きながら 母の人生を思う①

  母は9人兄弟の下から2番目。小さい頃から体が小さく、学校で先生に指されるといつも泣いてしまうような内気な女の子だった。
 娘時代は戦時中で、徴用で借り出される時には体の大きい妹が母の代わりに行かされた。妹は恋愛中で、母はいつも「姉さん、はよう嫁に行きない」とせっつかれていたようだ。それですぐ近所、歩いて1分もかからない父のところへ嫁いだのだ。母に、何でお父さんとこへ嫁に来たん?と聞いたことがある。母は、戦争が終わったばかりで、まだ戦地から帰ってきてない人も多く、近所にはお父さんしかいなかったから、と笑いながら教えてくれた。

 父の家には、大舅、大姑、舅、姑、小姑まで同居だった。父の兄弟は男ばかりの3人兄弟だった。弟達のお嫁さんは二人ともしっかりして手早い人だった。山へ木の葉をなでにいくのが3人の嫁の仕事だった。下の二人はじょうずに木の葉を束にしたが、不器用な母はうまく束に出来なかったので、いつも二人が山を降りた後、一人不恰好な木の葉の束を背負って山を降りた。
 おとなしい母は姑にいじめられると、やたらに実家に泣いて帰っていたようだった。その母を迎えに来るのはいつも舅で、実家の門の外から大声で、
「かーちゃん、戻ってきてくれえ、わしはおまえがついでくれたご飯がいちばんうまいどぉ」
 そして母は舅に連れなわれて家に戻った。納戸の奥でもよく泣いていたと言う。
「かーちゃん、おまえはどうしょうるんない?出てこ~い。納戸の奥は泣くとこじゃないどぉ、子供を産むとこどぉ」
 舅の声で母は納戸の奥から顔を出した。

 最初の子供が3歳で溺れて死んだ時、蘇生を計る為に火で冷たくなった娘を炙るのを見て母は狂ったように泣いたと言った。
 母は嫁いで8年間に5人の子供を産んだ。この近所で大きい腹をしとるのはいつも勢登丸の嫁じゃ、と言われたのが悔しくて、「おまえと こまいあんやんの間は3年空いとろうが」と母は誇らしげに言った。

 母は父と共に宇部で10年間くらい暮らした。父は船方を雇い漁に出ていた。母は留守を守り子供を育て、父が捕ってきた魚を海岸端のガンゲに並べて売った。
 私達子供もだが、母にとっても一番幸せなときだったと思う。

img022s.jpg

母からの手紙

 高校を卒業後、大阪へ就職した。大阪へは母がついてきてくれた。荷物を寮に運び、明日は帰るという夜、母はわたしに『いっしょに寝るか?』と言った。母といっしょに寝たことがなかったわたしは、一人がいい、と言った。
 朝目が覚めると、母が隣で寝ていた。いつわたしのふとんに入ってきたのか、わたしは気がつかなかった。母の気持ちをわかってあげられなかったことを私は後悔していた。
 母は、一人帰っていった。あとで聞いたことだが、母は大阪へひとりできたのははじめてだったらしい。帰りに梅田で迷って、「奥さん、どちらまで?」と聞かれても、「さぁ、どこでしょうなあ?」と答えたらしい。

 事務員ということで就職したのに、初日から現場の仕事だった。8時から6時までの仕事で、男性は通勤の人も入浴して帰って行った。みんなが入った後私が最後に入浴して、お風呂掃除を済ませると11時を回った。時々朝食も作らなければならなかった。
 女の子はわたし一人で、話相手もいなくさびしかった。状況を父に手紙で知らせて、帰らせて、と頼んだ。

 母から手紙がきた。
『おかあちんは おまへがかはいくて かはいくて。
 どこへいってもおんなじことよ。
 1ねんはしんぼうしなさい。
 さびしかったらにいさんのところへあそびにいきなさい。
 あみものでもしなさい。』
そして、かぎ針が1本同封してあった。

 十三駅の近くだったので、駅のほうまで出て、手芸品店で毛糸を買ってきた。
編んではほどき、編んではほどきして、さびしさを紛らわせていた。

 会社は化学工業だったので、シンナーを使っていた。仕事中、頭が痛くなりうつむいていると、近くにいた人から、『昼寝ならあっちでしなさい』と言われ、部屋に帰りそのまま新大阪から新幹線に乗り帰ってきてしまった。
 
 大阪には2ヶ月しかいなかった。父には叱られると覚悟していたのに、父は何も言わず、『編物を習いに行きなさい』と言って編み機を買ってくれた。

 母からの手紙は今も箱の中に大事に取ってある。時々出しては読み返してみる。
 
 おかあちんはおまへがかはいくて かはいくて・・・

昭和38年1月1日

akiyoshidais.jpg


 写真の裏にはそう書かれてあった。父41歳、母38歳、兄14歳、13歳、私9歳、弟7歳。家族6人が揃って写っている写真。

 小学校に入学すると、わたしたち兄弟は両親と離れ祖父母の元で暮らした。夏休み、冬休みになると兄が宇部へ連れて行ってくれるのだ。汽車賃は兄が持ったが、「まさかの時には、これを出すように」と、祖母はわたしのスカートのポケットの裏に何枚かの札を縫い付けた。尾道までは祖父が船で連れて行ってくれた。尾道から汽車に乗り、小郡で乗り換え、琴芝駅で降りた。駅までは父か母が迎えにきてくれていたが、迷子になった時のために「宇部市東区海岸通3丁目」をわたしたちは繰り返し暗唱していたものだ。

 夏休みに行くと、母は近所の洋裁のできる人に頼んでわたしのワンピースを何枚かいつも用意してくれていた。親と離れて暮らす寂しさはあまり記憶にない。それより、父や母と会える休みの楽しみの方がはるかに大きかったのだろう。

 近所には同じ漁師仲間がたくさんいた。母たちが、集まって「ギョウザ」や「ソラマメの羊羹」を作っていた記憶がある。「ヒタメ」に付いたご飯粒を水でさらし、乾かした後フライパンでからいりして砂糖をまぶしたおやつを、母はよく作ってくれた。貧しかったはずなのに、満たされていた。

 休みに宇部へ行くと、父はいろいろなところへわたしたちを連れて行ってくれた。「常盤公園の噴水」「下関の水族館のいるか」「カンガルーのボクシング」「若戸大橋」「秋芳洞」そして「秋吉台」。
 秋吉台には馬がいて、兄や弟たちは乗ったのに父はわたしには乗せてくれなかった。父はいつも、女は船に乗ってはいけないとか、女は酒を飲んではいけないとか、馬に乗ってはいけない、あんまり偉くなってもいけないとわたしに言った。
 
 10年前に宇部に行き、昔住んでいた家の近所に行ってみた。大きいと思っていた「地主」というお店は驚くほど小さく、船着場のガンゲも小さかった。
 家に続く路地も狭く、何もかもが小さかった。それほどわたしたちが小さかったということなのだ。

 父は29年前に他界し、母は認知症だ。長兄は徳島に、次兄は妻に先立たれ、弟は離婚した後何年も音沙汰がない。

 あの頃はよかったなあ、としみじみと写真を眺める私も、もう50を過ぎた。

幼い日の思い出

 長屋の路地の洗い場で、母が弟のおしめを洗っている。おしめはこうやってたらいの中で振り洗いをするのだと、母はわたしに教えている。 中腰で洗濯をする母のそばにうずくまって、わたしの思い出は始まった。

 記憶の初めのころ、わたしは山口県宇部市にいた。

 小さな家の、その又一間の間借り生活だった。もちろん風呂などあるはずはなく、大通りを渡って少し先の銭湯へ行った。
 大きな湯船の蛇口のそばで遊ぶのが好きだった。  母に石鹸入れを洗ってもらって、それで蛇口から水を汲んでは弟と変わりばんこに飲んで遊んだ。
 シャンプーはいつも母がしてくれた。ある日、母の膝に仰向けに寝転び、いつものようにシャンプーをしてもらっていると、かがんでいる母の乳首がわたしの口に触れた。そばにいた人が、
 あら、この子、お母さんの乳をのみょうるわ、と言い、母も、アハハ、と笑った。
 それは偶然の出来事だったが、私にとっては忘れられない思い出で、今でもはっきり母親の乳首の感触を覚えていることをとても幸せに思う。

 弟が6歳まで母乳を飲んでいるのを見ていたし、断乳の為に母が乳首に唐辛子を塗り、欲しがる弟が泣きじゃくるのをそばで見ていて、母乳に対する憧れが心の底にあったのだと思う。

 銭湯の向かいには『久保』という文房具屋があった。そこでプラスチックのはさみを買ってもらった。生まれてはじめて買ってもらった文房具だった。弟と切り紙をして遊んでいると、隣からヴァイオリンの音色が聞こえてきた。毎日同じ時間に聞こえてきた。隣は船具屋でわたしと同じ年頃の男の子が二人いた。私の楽器に対する興味はこのころから芽生えていったと思う。

 小学校1年生の時、ヤマハ音楽教室に通わせてもらってから少しピアノが弾けるようになると、父にピアノを買ってとせがんだ。父は、よっしゃ、ピアノを買いに行こう、と言って私を新川の商店街へ連れて行った。

 楽器店は何軒かあった。一軒一軒入っては、父はわたしにピアノを弾かせた。
 そして、このピアノは音が悪い、ほかの店へ行こう、と私の手を引いた。わたしは期待でどきどきしながら父のあとについていった。
 最後の店でもピアノを弾かせた後、音が悪いのう、と言い、父が陳列ケースから取り出したのは鍵盤ハーモニカだった。わたしは泣きたいのをぐっとこらえて、それならいらん、と言った。

 家の前の路地で、七輪に火を熾し、母はその日2度目の酒の燗をしている。最初の酒は熱すぎたらしく、父はひどく癇癪を起こし少し口をつけただけで投げ捨ててしまっていた。

 鼻をすすり、泣きながら酒を沸かす母を、わたしはじっと見ていた。

 クリスマスには、父は新天地へ飲みに出かけた。そして真夜中、父の調子のはずれた歌声に起こされて、母とわたしは表へ出る。

 さっくらっと ゆっうっじっが やっこらさのさあ

 父は酔っ払うと決まってこの歌を歌った。とんがり帽子に鼻めがねの父は、千鳥足でしかも放尿しながら帰ってきた。家に入りながらもう一つ、

 あっなたっに もっらぁった おっびどっめのー

と気持ちよさそうに歌っている。

 翌朝、大通りを一つ隔てた食料品店から、、昨夜父が酔っ払って割ったガラスケースの弁償をするようにと言ってきた。父には全く覚えがないらしいが、間違いはなさそうだ。
 母は、ほんまにほんまに・・・といいながらお金を持って謝りに行った。

 猪口でちびりちびりと、父はほんとうにうまそうに酒を飲んだ。
 一言も愚痴をこぼさぬ母を横目に、父はとぼけて又歌う。

 こんな おかめの どっこがようて ほぉれぇた

伊勢参り

  母は9人兄弟の8番目、嫁いだのは舅姑、大舅大姑、小姑たちのいる半農半漁の大家族だった。不器用な母は度々実家へ泣いて帰っていたという。
 下の弟が生まれてすぐに山口県宇部市へ行ったのは、母をつらい立場から救うためだったと危篤状態の母を見守りながら兄から聞いた。

 あのころの思い出の中の母は、隣近所の人たちと一緒に買い物に行き、集まってはギョーザを作り、ソラマメの羊羹を作り、時々は洋服を仕立ててもらい、父と映画を見に行き、秋吉台(次の写真)に行き・・・いつも笑っている母がいる。母の人生の中で一番幸せだったのは、宇部にいた10年ほどの間だったのだろうと思う。

 映画と言えば、母は弟をおんぶし、わたしは父に背負われ映画館に入った記憶がある。父の高い背中のぬくもりを今も覚えている。

 小学校に入学してからは、わたしは父や母の元を離れ祖父母に育てられ、宇部に行くのは夏休みと冬休みだけになった。5年生のとき両親は宇部を引き上げ帰ってきたのだが、それから後の思い出の中の母は、やはり泣いていた。

プロフィール

ゆいかばあば

Author:ゆいかばあば
《どうにかなる!》で いろんな坂道を歩いてきました
おもしろおかしく 笑って暮らしたいと思っています



広島ブログ

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。